走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

調子

「調子が悪かった」

昨年の春頃、京大の院生の方が練習に参加されたことがある。

少し前の京大長距離といえば、全日本大学駅伝に出場したくらいチームとして強かった。院生や上級生を中心に14分前半から後半の層が厚く、国公立大学の長距離としてはずば抜けて力があった。

さらに、エースの平井健太郎さんは全日本インカレ10000m2位、全日本も1区で区間4位と間違いなく全国トップクラスの実力であった。

そのとき練習に参加された院生の方も力のある方だった。その人から現在のチームについてのお話(半ば愚痴?)を伺った際、印象に残った言葉がある。

京大では院生も学部生と一緒に(ハイレベルな)練習をしているわけだが、下級生がどうも育っていないらしい。実力どうこうについてはある程度仕方のない面もあると思われるので、その方も後輩たちに実力がないということについては(不満はあっても)やむを得ないと思っていたところはあるみたいだったが、気に入らない理由は別にあったようだ。

下級生は練習や試合の反省でたびたび「調子が悪かった」という表現を使うらしい。それに対して、「調子が悪いって何?調子ってどういうこと?」と聞いても釈然としないらしく、ついには「調子」という言葉を使うことを禁止したらしい。

僕はそれに対して、「本当にそうですよね。調子が悪いって単なる言い訳ですよね。」と返した記憶がある。調子が悪くても絶対にそれを言い訳にしてはならない、という意味でそのように言った。

僕らは院生が学部生より実力がないことが多く(単に京大の院生が異常に強いだけとは思うが)、学部生に口を出す文化はあまりないが、もし学部生の立場だったら力のある院生にどやされるのはかなりしんどいことだと思う。怖いから萎縮してしまって「調子が…」などと抽象的で曖昧な回答をしているのかもしれない。

したがって、単純に「調子」を禁止ワードにしたところで根本的に何かが解決するわけではない、とそのときは考えた。

 

ところが、それから1年経って、「調子が悪いって何?調子ってどういうこと?」という言葉の捉え方が変わった。

その言葉の本当の意味は、「調子」という曖昧な言葉に原因を押しつけて具体的な分析をやめてしまっては、根本的に何も解決しないということではないか、と考えるようになった。

「調子」という言葉は、周囲の人に(偽りの)納得を与えるためには実に便利な表現だ。

自分の満足のいく結果が出れば、「調子が良かった」。結果が納得できるものではなければ、「調子が悪かった」。それを聞くと、「あ、調子が良かったんだ」「調子悪いんだ、大丈夫かな」などと、聞いている側も何となく納得してしまう。

ところが、よく考えてみるとこの言葉は何も言っていないのと同じようなものなのである。

ただし、現実問題として「調子が悪かった」という言葉を使いたくなることもあると思う。そんなとき、どのように考え、何をしていくべきか書いてみる。

 

「調子が悪い」とはどういう状態か

大抵の場合、本人の感覚として調子の良し悪しというのはあると思われる。

このような形で一般に使われる「調子」という言葉は、

「自分が頭で思い描いていた状態や身体が感じる感覚」

「実際の身体の動きや結果」

とのギャップであると考えられる。

ギャップがなければ調子はまずまず。いい意味でギャップがあれば調子が良く、悪い意味でギャップがあれば調子が悪いということになる。

調子が良いのはひとまず置いておいて、調子が悪いという状態を分析してみる。

実際の動きや結果については紛れもなく現実に起きていることで、否認するわけにはいかない。したがって、調子が悪いというのは、

「自分が思っているより自分の動きや結果が悪い」

という状態を表していることになる。

そこには「自分はこんなもんじゃないのに」という心理が見え隠れする。しかし、残念ながら、今の自分はこんなもんなのである。

 

「調子が悪い」と感じたら

この「調子が悪い」状態は、自分の状態を過大評価することで生じる。その場合、大抵は現実と過去(黄金期)との比較をしているか、現実を正しく認識できていないことが原因となっている。

過去との比較については、高校時代の自分を大学に入ってからなかなか超えられないというのがわかりやすい例だ。

あのときあれくらいで走れていたのに、どうして走れなくなっているんだろう。調子が悪いのはどうしてだろう。そう考えてしまう。ところが残念なことに、(何らかの理由で)今の自分は「この程度」なのである。

そこをしっかり受け止めている人は、仮に高校ベストを超えられずとも大学ベストを着実に伸ばすことができていたり、選手権で活躍できていたりすることが多い。

一方で、「こんなはずじゃない」とばかり思っていると、実は取り組みが甘くなっていることに気がつかなかったりする。

また、もう一つの例としては、たまたまうまく走れた練習やレースが自分の実力そのものだと思ってしまい、そこから安定して同様のタイムで走れないと「調子が悪い」と考えてしまうというものだ。

この場合、今に原因を求めるよりも、そのときどうしてうまく走れたのかを分析した方が解決につながる可能性が高いと思う。

したがって、「調子が悪い」という言葉を口にする暇があったら、まず自分が現状を正しく認識できているか、自分にとって受け入れたくない現実でも受け入れられているかを考えた方がいい。その方がよっぽど「調子が悪い」という状態から抜け出せる。

それでは、自己評価次第でいくらでも調子が良い悪いの解釈は変わってしまうではないか、という反論があるかもしれない。確かにこの考えに基づくと、自己評価を現実に即したものにすれば調子が悪いということにはならなくなる。

しかし、ここで強調しておきたい。

前進するために必要なのは「調子」が戻ることをこまねいてただ待つことではない。現状と向き合い、常に改善を求めて行動し続けることだ。

 

「調子が悪い」原因を明らかにする

「調子が悪い」という言葉の問題点は、「調子が悪い」と言うとなんだか自分も納得してしまって現実の分析という(ともすると面倒な)作業をやめてしまうことだ。

「調子が悪い」ということにすれば楽なのだ。具体的な原因が何一つ明らかになっていなくても、それ自体は曖昧な表現であるにも関わらず納得を生んでしまうという点で「調子が悪い」という言葉には不思議な魔力がある。

「調子が悪いから今はあまり走れていないけど、調子が戻ればちゃんと走れるようになるはず」という考えは、まるで自分の状態は誰かがどうにかしてくれるかのようである。しかし、自分の状態は自力で何とかしようとしなければいい方向には進んでいかないと思う。

確かに、自力ではどうにもできないこともある。暑いのが苦手で夏にあまり練習が積めなかったり、家族と生活しているために思うような食事や睡眠が摂れなかったり、ということはあるだろう(後者については家族と話し合えばいいのかもしれないが、人には人の価値観や生活習慣があるので、必ずしも何とかできるとは限らない)。

自力でどうにもならないことについては諦めるしかない。少しでもできることは続けるべきだが、あまり効果は期待しない方がいい。

夏であれば朝や夜に走る、冷たい水を一気飲みしない、部屋を冷やし過ぎない、などがあるだろう。食事は補食や間食、サプリメントを活用する、睡眠は昼寝をする、夕食を早めに済ませる、寝る前に体温を上げない、スマホやテレビを見ないなどで睡眠の質を上げるというやり方があるが、やはり夏が終わるまでは楽に走れるようにはならないし、食事や睡眠は思うように摂れる方がいい。

しかし、「調子が悪い」原因を分析したところ、どうやら自力でなんとかできることかもしれないということであれば、行動に移して少しずつ成果が現れるのを待ちつつ粘り強く努力していくべきだ。

本当にどうして「調子が悪い」のかわからないということであれば、ひとまずその原因探しをするかもしれないが、そこにも主観の罠が潜んでいることに注意しなければならない。「わからない」のではなく、「わかりたくない」という可能性もある。

人は自分の嫌なところにはどうしても目を背けてしまいがちである。主観を排除するために、まずは情報を整理する。練習メニュー、睡眠時間、体重、1分間の心拍数と呼吸数、1日の生活様式(何時に何をしていたか、といった生活の記録)、食べたもの飲んだものの種類と量、タイミングなど、身体の状態や生活に関わる情報を全て洗い出してみる。最低でも1週間分は書き出す必要があるだろう。

次にそれを眺めてみて分析する。それでも原因らしきものが見つからない場合は他の人にも分析してもらう。そうすると、何かしら改善点が出てくるかもしれない。このとき相談する人はトレーナーなど専門的な知識のある人がいいかもしれないが、別にそうでなくてもいいと思う。また、情報という意味では練習の動画があればそれも役に立つこともある。

分析した結果、すぐに変えられそうなところは変えていけばいいが、どうやって変えればいいか、その方法がわからないということもあるかもしれない。しかし、そこまでいくと大抵は「調子が悪い」という次元を超えていることが多い。根本的な走力の問題になってくる。

これはあくまで僕の経験に過ぎないが、自分の「本来の」パフォーマンスが発揮できないというのは、睡眠不足や練習過多で身体の疲労が蓄積しているときや、生活に余裕がないとき、食事に偏りがあるときに多い(花粉の飛ぶ春など特定の時期は除く)。

 

「調子」を感じないくらいがちょうどいい

パフォーマンスの再現性を高く保つには、自分の状態は可能な限り自分で制御できるようにしておかなければならない。特定の時期に身体の状態が悪くなってしまうのは避けようがない面もあるが、それについては最善を尽くしつつも「この時期は仕方ない」と割り切ってしまうことも大切である。

年中ピークパフォーマンスを発揮するのは無理だし、何なら人生の中でピークパフォーマンスを発揮できるのも数えるほどしかないだろう。常に100%の状態である必要はない(個人的な経験則ではあるが、100%の状態を作ると、少し経ってから反動で60%くらいの状態になってしまう気がする)。

基本的には、いかに80%の状態を維持していくか、という考え方が長期的に見れば最も有益だと思う(ちなみにこれは先輩から伝えられた考え方でもある)。調子が良くもなければ悪くもない、そもそも調子ということを考えないくらい状態に波を作らない方がよいのではなかろうか。

年に何度か頑張る試合はあると思うが、その後は状態が落ちることを見越してしっかり練習量や強度を落とし、回復に専念する。不思議なことに、身体の状態に波を作らないと、精神も安定してくる。生活への支障も抑えられる。

そのためには、生活リズムも安定している方がいいと思う。学生は夏休みと春休みが暇で、どうしてもこの時期にオーバートレーニングに陥りやすいが、暇つぶしに走ってもいいことがない。

時間を有効活用して競技力向上に結びつけたいというのなら、運動生理学やバイオメカニクスについて勉強したり、ケアに時間をかけたり、栄養学を勉強してパフォーマンスアップのための料理をしてみたりと、やれることは意外とある。

日常生活が忙しいなら、生活リズムをきちんと作って淡々と練習を積み重ねていけばいい。継続に勝るものなし。