走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

人を動かす

先月末の競技会で、今年は予選会を走ることができないことが決まった。9月に入る前くらいから、これはどうも厳しいかなあ、と思っていたから、いざ出場できないことが確定してもそこまで動揺することはなかった。本当にラッキーなら出場できる、くらいの想定だった。ペースメーカーで競技会を走るのが億劫ではなかったと言えば嘘になる。けれど、34分で10000mを走るのはそれなりの練習になるし、何より頑張っている同期や先輩のために何もしないわけにはいかなかった。そういう義務感で走っていたところもあったけれど、走り終わった後はそれなりに充実感はあったし、横浜市ナイターが雷でレース中断になったときは本当に不愉快な気分だった。

僕は、自分のやりたいことに没頭して生きていきたいと思っているし、人それぞれやりたいことがあるのだから、「練習をさせる」という考え方は全く肌に合わない。自分は自分、人は人だと思う。大きな集団を率いる立場になったのにリーダーシップを発揮できなかった幹部時代のトラウマみたいなもので、より一層強く「自分は自分、人は人だ」と思うようになった。それは一種の諦めであり、もしかしたら現実逃避なのかもしれない。

大学院生は研究が忙しいから、ただ練習を続けるだけでもそれなりに大変だ。村上春樹の言葉を借りれば、走る理由は少ししかないが、走らない理由はいくらでもあるのだ。予選会に出たければ、標準を切っていない人が切ってくれるのをただ待っているのでは絶対無理だ。かと言って、自分にできることと言えば、練習メニューを出す、練習するよう声かけする、集合練習のセッティングをする、試合でペースメーカーをする、くらいしか思いつかない。できることを全部やったとは言い切れないが、他にできることも大してなかったと考えている。

口では「予選会に出たい」と言っていても、そのために必死になって練習しない人は、心から出たいと思っているわけではないのだ。そういう人に無理やり練習させてまで、やりたくないことをやらせてまで、自分の願望を叶えたいとは思わなかった。

 

そもそも学部生の頃、長距離パートチーフであったとき、いやそれよりもっと前から、人によって意識の差があることは感じていた。自分の方がやる気があるとか、あいつはやる気がないとか、そういう話をするのは傲慢なのかもしれないが、何が何でも本気で速くなりたい人と、速くはなりたいけど色々なことを犠牲にしてまで速くなりたいわけではないという人と、本当にサークル気分で部に所属している人がいたことは確かだ。

本音を言えば合宿の最終日や試合の後に打ち上げをする風潮も嫌いだった。何のための合宿だよって口にはできなかったけど。学部生のときでさえこういう状況なのだから、大学院生になれば練習しなくなるのはそう不思議な話ではない(必死に頑張っていた人もいたのだけど、全員ではなかった)。

部活という形で定められた期間の中で競技をしているか、部活はあくまで手段で個人として意志を持って競技をしているかの違いは、大学院生や社会人になってはっきりしてくる気もする。それはどちらが優れているとかそういう話ではなくて、考え方の違いに過ぎない。ただ何となく、競技力のある先輩たちが大学院生や社会人になってもバリバリ競技を続けているのを見ると、この人たちは本当に競技が好きなんだなあと思うし、僕もどちらかと言えばそういう人間だから、まだまだ競技力を伸ばせるのではないかという甘い考えも生まれてくる。

 

話は戻るが、大学2年の頃から親しくさせていただいている、とある陸上部OBの方に今年の予選会に出場できない旨を報告した。すると、こんな返事が来た。

「自分が頑張ることよりも、周りの人に頑張ってもらうことの難しさ大変さが、この1年はよくわかったんじゃないですか?」

かなり刺さる言葉だった。

前述したような考え方が背景にあって、僕は「人を動かす」ための努力をする気にはならなかった。やる気がある人は勝手に頑張るし、やる気がない人は放っておけばいい。今となってはほぼ個人として競技をしているので、他者の結果は自分には関係ないし、何一つ責任を持つことはない。ただ、予選会だけは例外で、他者の結果が自分の動向を左右する。だから、本当に予選会に出たいのなら、もっと人を動かす努力をすべきだったのかもしれない。それをしていなかった時点で、僕自身も練習しない人と同じくらい「そこまでして予選会に出たいわけではない」人だったと言える。つまり、予選会へ出場できないことに関して、僕にはその人たちを非難する資格は一切持ち合わせていない。責任という言葉をここで用いるのは変かもしれないが、標準を切った人切らなかった人それぞれに責任があり、予選会へ出場できないのはいわば全員にとっての自己責任であるとしか言えない。

 

僕は未だに、大学の部活で幹部を務めた1年間で何かを得られたのかどうかわかっていない。よく「いい経験でした」と文に書いたり声に出したりしてきたが、いま改めて考えてみると、何がどういい経験だったのか、具体的に説明することはできない。「いい経験」といっても、ポジティブな経験とは限らない(「いい薬になった」というやつだ)。自分にリーダーの資質がないことは嫌というほど思い知った。集団を高めるためではなく、自分の権利を守るためにリーダーになったような気がして、いま振り返れば立場を濫用していただけのようにも感じてしまう。

人を動かす気になれないというのもあるけれど、それ以上に人を動かす方法がわからないということもある。人を動かすとは人をやる気にさせることだ。外的なモチベーションはある程度与えることはできるかもしれない(子どもなら、褒めたりご褒美をあげればいいし、大人でも報酬を払えばいい。勝負に勝ったり、いい記録を出したときの喜びも報酬である)。しかし、何の研究か忘れたが、こうした外的なモチベーションは物事を長く続けるのにはあまり役に立たないらしい。報酬がなくなれば頑張れなくなるから、与えられたハードルを越えるのが無理そうなら、報酬を諦めて努力を止めることが多い。

逆に、自発的な(内的な)モチベーションがある人は、ちょっとやそっとのことではへこたれない。ハマっている物事にコツコツ取り組むこと自体が自己実現につながることを(そのことに気づいていてもいなくても)知っていて、目標のために努力するのは当たり前になっている。

こういう状態にして初めて「人を動かす」ことができたと言える。だが、この状態に至るまではかなりの時間と努力が必要となる。それまでの過程においては、辛抱強く向き合わなければならないだろう。OBの先輩から教わった、山本五十六の人を動かす極意は

「やってみせ、言って聞かせてさせてみせ、ほめてやらねば人は動かじ」

というものである。時間と労力を割いて向き合わなければ簡単に人は動いてくれない。この言葉を部活動にそのまま当てはめるのは不適格な気もするが、少なくとも仕事には大いに役立つ教訓だろう。

科学者、メディアアーティストとして近年脚光を浴びている筑波大学の落合陽一氏の言葉に「後継者ではなく、後発を育てよ」というものがある。後継者は人が完全に身を引いてからその人の後を担う者。一方で、後発とは、人から教わりながらも、その人と共に物事に取り組む人のこと。上下という縦の関係ではなく、対等な横の関係である、研究室や職場ではもちろんのこと、歳がほとんど離れていない部活動においても、「幹部・非幹部」「上級生・下級生」という切り分けはせずに、後継者ではなく後発を育てていく意識で運営していくと、主体性の高い集団になるのかもしれない。