走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

動作改善

院生になってから半年が経ち、この生活もすっかり板についてきたわけだが、今年の秋冬シーズンは(今のところ)大きな故障もなく練習をこなし、試合にも出場できている。この時期にまともに走れたのは学部1年のときが最後で、そのあとは例外なく夏合宿の終盤に故障をしてこの価値あるシーズンを棒にふった。北海道の気候は僕の身体に全く合わないというのもあるが(今年は北海道へ行っていない)、練習をコントロールする能力が不足していた、というのも大きいと思う。具体的には、故障を引きずった状態で練習を続けることや、単純な練習過多と休養不足、あるいは「今日はなんとなくうまく動かないな」「疲れているな」というときでも練習の設定や時間、本数などを落とすというような対処を怠ることがあてはまる。

故障するほど練習してしまう背景には、練習しないでいることへの不安や焦りに加えて、練習以外に速くなるための手段を持ち合わせていないということがある。

学部生の間は(時期にもよるが)比較的時間があるので、どうしても「とにかくいっぱい練習する」という方向に考えがちだった。一方で、院生になってからは平日の練習が時間の制約を受けるようになった。例えば、平日は研究室に行く前に朝練でその日のジョグを済ませ、水曜の朝にポイント練習として軽めのペース走やファルトレクを入れる。朝、ご飯を食べる前なので当然身体は思うように動かず、ペースは遅めにせざるをえない。練習だけでなく、ケアに充てられる時間も限られる。好きなことに取り組んでいるので研究は手を抜きたくないし、かと言って睡眠を削るわけにもいかない。社会人になればもっと忙しくなる可能性もあるし、今後自己記録を更新し続けていくためには練習以外の手段で速くなることも考える必要がある。言わば、「動作を改善する」ことにより一層注力していく必要があると考えるようになった。学部生のときも、動作を改善するための努力をしていなかったわけではないけれど、効果が現れるような方向の努力をできていなかったように思う。院生になってから劇的に記録が伸びたわけではない(一応、わずかながらトラックの記録は更新できた)が、実質的には学部生時代の半分くらいのクォリティの練習で自己記録を伸ばせているので、今取り組んでいることの方向性は間違っていないと思う。

 

あくまで僕個人の考えだが、動作改善のためには次のようなステップを踏む必要があると思っている。

①学ぶ・知る

②身体が「変わる」ような取り組みをする

③イメージを変える

この3ステップを順に乗り越えて初めて動作が改善される。

 

まず、自分の身体がどう動いているかを内面外面の両側から観察する必要がある。外面からはビデオを撮ってもらってそれを見る。内面からというのは、動いているときに自分の身体のどの部位がどのように動いている感覚があるのか、どこに力が入っていてどこが脱力しているのか、などを感知することを指す。高岡英夫氏の言う「身体意識」がそれにあたる。

また、優れたパフォーマンスを発揮するトップアスリートの動きを「浴びる」ように見ておくことが必要だ(今はyoutubeでいくらでも見れる。長距離であれば国内でも留学生など東アフリカのランナーの動きを生で見る機会は少なくない)。

さて、ただ見ているだけで速くなれるのなら苦労しないが、観察することは学ぶための必須事項だ。そこから何を学ぶか、ということだが、それは個々で異なる。間違いなく必要なことは

・彼らはどうして速いのか

・それに比べて自分は何故遅いのか

を比較することだろう。

「そんなの当たり前じゃないか」と言わんばかりに、誰もが世界のトップレベルの動きに共通することを探し、自分の動きの粗探しをしていることだと思う。だが、ここで強調しておきたいのは自分の動きを「内面」からも観察しておくことが不可欠ということだ。何故なら、外側に出てくるもの(=目に見えるものや、測定して数値化できるもの)だけでは、本質を捉えたとは程遠いからだ。例えば、大迫傑選手の活躍で一層有名になった前足部接地(フォアフット)だが、これをすぐに自分の走りに取り入れようとしても無理があるし、そもそもどうしてフォアフットが優れていて、どのような身体を持っている(どのような動きをしている)人がフォアフットで走るのかを本質的に理解しなければその知識は実用的ではない。

身体活動というのは複雑で、身体の内部では何が起こっているのかわからない。いわばブラックボックスだ。ところが、その箱の中身の違いははっきりとアウトプットとして現れてくる。したがって、本質を知るには表層を形づくる内容を知らなければならない。したがって、表層的部分的な「優れている点」「改善点」を列挙したところで何もわからない。

当然ながら箱の中身を明らかにする統一的な理論は見つかっていないし、少なくとも科学的手法で明らかにするのは無理だと思っている。それくらい事象が先行しすぎているのが身体運動という分野だと思っている(運動科学そのものを否定しているわけではない。学問自体に価値がないということは決してない。ただ、事象を説明するに必要な情報が多すぎるというだけだ)。

これについては自分なりの答えを探していくべきで、この世に真理や正解は存在しないが、僕は「ゆるんでいるから高いパフォーマンスが発揮される」という高岡氏の説明をひとまずの指針にしている。②にあたる具体的な取り組みを挙げてみると、高岡氏のゆる体操、セルフマッサージ(ボールやフォームローラーを活用したトリガーポイントの緩解と筋膜リリース)、初動負荷トレーニングくらいのものだ。

さて、内面から観察したことをどのように生かすか、という話に戻ろう。動いているとき、あるいは動いていないときでも、自分の身体の各部位を意識的に知覚できるということが、身体意識があるという状態だ。例えば、背中の筋肉がうまく使えていない人は多いが、そういう人は背中への身体意識が存在しない。「意識することはできる」という反論があるかもしれない。しかし、そのような「意識」は「一生懸命背中に意識を向けようとしている」というだけで、もっと直接的な表現をすれば「ただ背中のことを頭で考えているだけ」である。身体意識が存在しているというのは、背中がそこに「ある」ことがありありと伝わってくる状態だ。人間は手足のような末端部位が器用に動くようになった代償に、体幹部の身体意識が失われやすい。

したがって、自分の動きを内面から観察しているとき、知覚される部位が身体意識の存在する部位ということになる。より高いレベルでは、身体意識は「脚」「背中」などという漠然とした範囲ではなく、骨の一つの動きまでも知覚し、場合によっては選択的に動かすことができる。高岡氏はこれを極める過程で、背骨の椎骨(椎間板で繋がった骨)の一つ一つに身体意識が存在していて、「胸椎の○○番目」など選んだ椎骨だけを独立に動かすことが可能になったという。自分の身体意識がどこに存在していて、そのレベルはどの程度なのか(漠然とした柱状のものとしてしか感じられないか、それとも筋肉の位置や一つ一つの伸縮が感じられるか、骨の一つ一つの細かい動きまでも感じられるのか)を把握することで、自分の身体が実際にどのように動いているかを知る手がかりとなる。

体幹部が板のようにしか感じられないのは、本当に体幹部が板のようになっているからだ。体幹部と言っても多数の骨と筋肉から構成されていて、これらが複雑に組み合わさっているにもかかわらず、互いに結合してしまい動きがロックされると、体幹部全体としては板のようにしか動けない。一方で、骨や筋肉が構造分化(これも高岡英夫の表現)していて独立に動くことができると、身体意識としてそうした骨や筋肉を知覚することができる。

トップアスリートの身体意識を知ることはできないかもしれないが、外側に現れている動きから想像することが重要だ。彼らの動きを浴びるように見る学習にはそういう点で意義がある。リアルな身体意識について学ぶのは自分の身体を通してでしか不可能だが、イメージすることは全く不可能なわけではない。そして、あのような動きを成立させるために必要な身体を習得するために身体をゆるめるための取り組みをしていく。

さらに言うと、イメージは「身体のどこどこがどうこう」という直接的なものではなく、「〜するように」という比喩的表現を用いたものが効果的である(と思う)。僕が耳にした例だと、「ロープを引くように」腕を引く、「下敷きを挟んで落とさないように」脇を締める、「紐で上から吊るされたように」立つ・走るなどといったものがある。教わったことのある表現で1番のお気に入りは「耳で肩甲骨を探す」というものだ。

ゆるんでいないと正しいイメージを持てないということもあるが、イメージによって身体が理想的な動きを覚えていくということもある。だから普段のジョグは漫然と走るだけではもったいなくて、どんな感覚があって、どんなイメージを持つと楽な走れるかいろいろ試行錯誤している。

一般的な考え方かはわからないが、僕の所属している集団は意識で動きや筋活動をコントロールしようと考えている人が多い気がする。僕自身もかつてそうだったが、効果を感じないので一切そのような考えをしなくなった。それから、身体を変えることに着目し、「身体が変われば自然と走りも変わる」と考えるようになった。今は、これも半分正解で半分不正解だと思っている(まあ、正解なんてないのだけど)。身体が変わらないとできない動きはあるが、身体が変わるだけでは動きは変わらないと思う。例えば、初動負荷トレーニングを初めて3年以上経ち、周りの人と比べたら上体がかなり柔らかく動くようになった。ところが、それによってランニングのパフォーマンスが劇的に向上したというわけではない。道具は手に入れたのかもしれないが、使い方はわからないままなので、最近はイメージを探すことに着目している。

この辺の話は、哲学者であり武道家でもある内田樹氏の考え方に学んだところがある。以下は引用。

 

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こういう経験をしてきて、いくつか気がついたことがあります。
一つは、具体的に身体部位を指示して、腕をこう動かしなさいとか、足をここに置きなさいというように、具体的に指示することは武道的な動きの習得の上では、ほとんど効果がないということです。人間はある部位を意識的に動かそうとすると、それ以外のすべての部位を止めようとする。手首を「こういうふうに」動かしてというような指示をすると、手首以外のすべての部位を硬直させて、手首だけを指示通りに動かそうとする。でも、実際に人間はそんなふうに身体を使いません。重心の移動も、腰の回転も、内臓も含めて全部位を同時に動かすことによって一つの動作を行っている。でも、具体的に「手首をこういうふうに」という指示を出すと、それ以外の随伴するべき動作を止めて、手首の動きに居着いてしまう。
だから、具体的な指示はしない方がいい。では、なにが有効かというと、文学的表現なんです。経験的には、詩的なメタファーが最も有効です。「そこにないもの」を想起させて身体を動かしてもらうと、実に身体をうまく使う。現にそこにある自分の身体を操作しようとするとぎくしゃくするけれど、そこにないものを操作する「ふり」をさせると、実に滑らかに動く。
最初にポエジーが効果的だと気づいたのは、もう10数年前になります。その時は、手をまっすぐに伸ばすという動作がなかなかみんなできなかった。そこで、ふと思いついて、こんな情景を想像してもらいました。「曇り空から今年はじめての雪が降ってきた。軒の下からそっと手を差し出して、手のひらに初雪を受ける」そういうつもりやってみてくださいと言ったら、みごとな動きをしてくれた。今思っても、いい比喩だったと思います。手のひらにわずかな雪片の入力があって、それが感知できるためには、手のひらを敏感にしておかないといけない。そのためには腕の筋肉に力みがあってはならない。わずかな感覚入力に反応できるためには、身体全体を「やじろべえ」のようにゆらゆらと微細なバランスをとっている状態に保っていなければならない。身体のどこかに力みがあったり、緩みがあったりすると、バランスは保てません。だから、全身の筋肉のテンションが等しい状態になっている。そういう状態を自分の骨格や運動筋だけを操作して実現することはほとんど不可能ですけれど、「初雪を手のひらに受ける」という情景を設定するだけで、誰にでもできてしまう。そこにある骨格や運動筋を操作するよりも、「そこにないもの」を思い描く方が複雑で精妙な身体操作ができるということをその時に実感しました。

先日、初心者ばかりの講習会があって、そこで両手を差し出して、それを180度回転させるという動きをしてもらうということがありました。なかなかみんなうまくできなかった。そこで、こんな状況を想像してもらいました。「赤ちゃんが2階から落ちてきたので、それを両手で抱き止めて、後ろのベビーベッドにそっと寝かせる。」設定が変なんですけれど、そういう状況をありありと思い描けたら、すぐにできる動作なんです。そのままなんですから。女の人がこういうのは、うまいですね。男の人たちはけっこうぎごちない。赤ちゃんをあまり抱いたことないんでしょうね。
何かの「目標」が与えられたら、放っておいても、それを達成するために身体は最適運動をしてくれます。そして、武道の場合は対敵動作ですが、僕が「そこにないもの」をめざして何か行動した場合、相手からすると、その動きを予見したり、阻止したりすることは非常に難しくなる。だって、何をしようとしているかわからないんですから。仮に相手が僕の手を両手でがっちりつかんでいる場合、「そこにある手」を振りほどくという動作は非常に難しい。でも、例えば、その時に僕の鼻の頭に蚊がとまったと想定すると、僕は蚊を追い払おうとする。その時、手は、鼻の頭に至る最短距離を、最少時間、最少エネルギーで動こうとする。その動きには「起こり」もないし、力みもない。具体的にそこにあって僕の動きを制約している相手の両手を「振りほどこう」とする動きよりも、どこにもいない想像上の蚊を追い払おうとする手の動きの方が速く、強い。「そこにないもの」にありありとしたリアリティを感じることのできる想像力の方が、具体的な筋力や瞬発力よりも質的に上等な動きを実現できる。それは武道の稽古を通じて、僕が実感したことです。

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引用元: 言葉の生成について - 内田樹の研究室

 

 引用元の記事は興味深い話なので是非全体を一読してみてほしい。