走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

練習日誌を書く

最近、人気ブロガーのちきりんさんのブログや著書にはまっている。文章が論理的で読みやすいだけでなく、展開される論が合理的かつ明快で読んでいて気分が良い。

なるほどな、と感じたのが、アウトプットの意義に関する以下のエントリ。

chikirin.hatenablog.com

書くというアウトプットを通して、自分が今何を考えているかを形にできる。

 

他にも、アドラー心理学に基づくベストセラー「嫌われる勇気」の著者である古賀史健さんの「20歳の自分に受けさせたい文章講義」によれば、聞いた話を誰かに話す「翻訳」の意義は、

①再構築(言葉にすることで内容を再構築し、理解を深める)

②再発見(言葉にすることで語り手の真意などについて「こういうことだったのか!」と気づく)

③再認識(言葉にすることで、自分が何に面白いと思ったのか再認識する)

ということだ。自分の頭の中では混沌としている思索を言語化することで、考えを整理できるだけでなく、思考を進め、また新たな側面に気づくこともできる。

各国で話題の"Think clearly"(ロルフ・ドベリ著、サンマーク出版)の中でも、「考えてから書くのではなく、考えるために書くのである」という文言が現れる。こうした認識はきっと、物書きの間では普遍的なものなのかもしれない。

 

練習日誌の話。

日誌をつけるのは、ログ(履歴)を残して後で見直すことができるようにするためだけでなく、練習で感じたこと考えたことを言語化(アウトプット)することで思考を深められるという点でも有意義である。

日誌として文章化することで、例えば練習や試合で感じた「うれしい」「悔しい」といった感情を残し、それ以降の競技のモチベーションとすることは確かに可能だ。教わったことや考えたことを記録することは大切だ。

しかし、それ以上に、「練習日誌を書いているその瞬間」の状態、これこそが思考のプロセスとして重要なのではないか

練習の最中では主観的にしか見えなかったものを一歩遠いところから客観的に振り返って反省し、何をどうすれば改善できるかを考えることができる。言語化が容易ではない体の感覚を、どうにか言い表そうと奮闘することで、新たに気づくこともあるし、より深く考えていくための材料も見つけられる。

 

同じようなことが試合反省にも挙げられる。

いまはもうやめてしまったみたいだが、僕が学部生のときは部員は試合に出たら試合反省を文章化して共有するということをしていた。あれも、強制されている感があったからあまり有効活用されなかったのかもしれないけれど、きちんと取り組めば競技力向上にもつながる大事なプロセスだと思う。

試合で走っているときというのは無我無中で他のことは何も考えられない。だからこそ、試合が終わった後、一歩離れたところからあれこれ振り返ってそれをアウトプットすること自体で多くのことを学ぶと同時に、これからどんなことを考え、追究していくべきかを明らかにできる。言い換えれば、今後どんなことに注力していくのが競技力の向上に効果的かを理解して前へ進むことができる。

 

どうしても書くのが面倒なら話すだけでもいい。

書く方が、言葉にする上で多くのエネルギーを必要とするから、実行に移し続けるのは楽ではない(その分見返りは大きいのだけど)。練習日誌が続かない人がいるのもそういう事情があるからだと思う。

けれど、これまで書いてきたアウトプットの意義を考えれば、自分の頭の中の物事をそこだけで完結させるのは非常にもったいない。練習のあと、練習仲間と練習について軽く振り返ってみたり、集合時に積極的に練習反省を述べるでもいいだろう。

大事なのは言語化するというプロセス。