走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

"科学"との向き合い方

経験論と"科学"信仰

先日、父が「科学はすごい」という話を持ちかけてきて少し議論をした。

父は趣味としてウエイトトレーニングを週1で続けている。ベンチプレスの自己記録は120kgとのことだが(一般的にこのスコアがどれくらい凄いのかいまいちわからないが、30kgで音を上げる僕から見たらとても凄い)、今となってはその目的は体型・筋力の維持である。

そんな父が持ちかけてきたのはこんな話である。

 

スクワットは足幅を狭めて行うと前腿に、広げて行うと腿裏に「効く」と経験的に言われている。つまり、前腿を鍛えたければ足幅を狭め、腿裏を鍛えたければ足幅を広げて行うのがよいとされてきた。

ところが、実際に筋電図を測ってみると、足幅を変えても前腿、腿裏のそれぞれのシグナルはほとんど変わらなかった。

 

父はどうやら、経験的に正しいと思われていた物事が実は正しくなかった、ということが科学によって明らかになることに感動したらしい。

それを聞いて父に返した話を箇条書きしてみる。

 

・「効く」という感覚と実際にどの程度筋肉が活動しているかが一致しないことは往々にしてある(逆に、活動していてもわからないということは多々ある)。感覚とは脳の錯覚である。

 

・筋電図はあくまで筋肉に生じる電位差を見ているだけで、その活動量が全て物理的に発揮される力に置き換わっているわけではない(骨の位置によって大きく変わる)。

足幅の違いがトルクの違いを生み出し、同じ筋出力で異なる大きさの負荷を持ち上げられることもある(実際に、足幅を適度に広げているときの方が大きい負荷を支えられるようだ)。

昔は女性が米俵を何俵も担いでいることができたように、重心感知が極めて優れていれば少ない筋力で非常に大きな負荷を支えることも不可能ではない。

 

・トレーニングの目的によって、その科学的知見の使われ方は異なるだろう。

(見かけのために)筋肉をより大きくしたいという人からすれば、「なんだ、効果は変わらないし足幅は気にせずにやりやすいようにやればいいんだ」となるかもしれないが、より大きな負荷を支えられるようになるためにトレーニングをしている人(スコアの更新を目指す人や、日常的に重い物を持ち上げる人)にとっては「自分は足幅を広げて持ち上げるトレーニングだけ続ければいい」ということになる。

一方、他のスポーツへ活かすためにトレーニングしている人からすると「使われている分、神経系も発達するのか筋電図だけでわかるの?」「自分のスポーツでよく使う筋肉に『効く』感覚があるようにトレーニングした方が、実際にうまく使えるようになるんじゃない?」という疑問が生まれる。

 

さて、今回の記事で主に話していくのは3つ目の視点である。父の主張は「科学は経験的には正しいとされていたことが謝りであったことを明らかにした。これはすごい」というものである。

確かに、その事実だけを切り取ったら「すごい」ことには間違いない。しかし、この主張には言外に「科学は経験論よりも正確で優れている」という思想も含まれているように感じられる。科学に関してある程度知識があると、科学的知見に基づいた方法は必ず正しいという誤解に陥りやすい。

Steve Magness氏によれば、スポーツのコーチングにおいては科学を盲信する科学者と、科学を全くもって受け入れず経験論だけで指導を行う指導者との間に齟齬が生じているために、現場でスポーツ科学がなかなか有効活用されないということだ。そうではなく、科学的知見、経験論それぞれの優れた点をうまく組み合わせ、試行錯誤しながら個々の選手に合ったやり方を模索していくのが、指導者としてあるべき姿なのだと言う。

この観点からすると、Magness氏のような、選手とスポーツ科学の両方の経験を持つ指導者が優れているということになるし、もしくは経験論者と科学者のそれぞれが互いの主張を汲み取り、建設的なディスカッションを通してそれまでになかった新しいやり方、理論を作り出すということも有意義かもしれない。後者のやり方はヘーゲルの言うアウフヘーベンのようなものだ。

 

目的は手法に先立つ

ここで主張したいことは経験論と科学のどちらが優れているということではない。そうではなく、経験論も科学も、どちらも手法の一つに過ぎないということだ。

そして、手法の巧拙以前に考えるべきは、その手法が本来目的としていたことのためにあるものなのか、というところである。

たとえば、「うさぎ跳び」は効果がないとして淘汰されたが、それはあくまで「うさぎ跳びは試合で勝つという目的を達成するための手法としては優れていない」ということだ。

もし、指導者が、「根性をつけさせる」ことを部活の目的としているのであれば、うさぎ跳びのような科学的にはほとんど意味のないとされる練習が、目的にかなった手法となることもあるのだ(決して推奨はしていない)。

小中学校の部活でいまだに根性論がまかり通っているのは、小中学校の部活がプロの競技のように勝つことを目的としているのではなく、「部活を通した人間形成」を目的としているからかもしれない。

僕の好きなサッカーマンガ「Be blues!」でも、そのようなシーンが現れる。主人公の監督は、普通の階段の何倍も段差のある専用の階段をひたすら昇り降りさせる不合理な練習を選手に課しつつも、世の中の理不尽さに立ち向かうたくましさをつけてほしいのだ、と語る。高校で、しかもかなりの強豪のチームでありながら、こうしたいわば「部活」としての目的も共存している前提ならば、このような不合理な手法が動員されることもあるのだ(フィクションだけど)。

つまり、ある手法が理にかなっているかどうかは、目的によって変わりうるのだ。ウエイトトレーニングの例でも、何を目的としてウエイトトレーニングをしているかによって、筋出力が足幅に依存していないという科学的知見が役に立つこともあれば、あまり関係しないということも考えられる。

 

VO2Max主義への批判

最後に、長距離走者に関心がありそうなVO2Maxという題材を取り上げてみる。Steve Magness氏の著書" Science of running"にもVO2Max主義への批判は事細かに説明されていて、それとも被る内容があるかもしれないということは先に断っておく。

VO2Maxが長距離ランニングのパフォーマンスの指標となりうることは確かだ。そして、VO2Maxを指標として、様々な練習についてその有用性を調べた研究も、それ自体は研究として大きな価値があるものだ。ところが、そこで得られた科学的知見を、そのまま方法論として導入することには慎重になった方がいい。

私見を述べれば、トップでなくとも、日々ハードなトレーニングをこなしているアスリートにとって、VO2Maxを伸ばすための科学的知見が役に立つがどうかは疑問である。理由は2つある。

一つ目の理由は、普段からハードな練習を積んでいる人は、VO2Maxはこれ以上練習しても伸びる余地がない可能性がある、ということだ。

日本のトップと世界のトップでVO2Maxにはほとんど差がないという話もあるし、VO2Maxの限界値は個人に固有のものという可能性もある(限界値までトレーニングで伸ばすことはできても、遺伝などの要因によって決まる限界値を超えることはできないかもしれない)。

したがって、(よくある)普段あまりハードなトレーニングをしていない被験者を対象にして特定のトレーニングによるVO2Maxの上昇からそのトレーニングの有用性を証明したとしても、同じ効果がトレーニングを積んだランナーには現れないということが十分考えられる。

二つ目の理由は、VO2Maxを伸ばすことが必ずしもパフォーマンスの向上につながるとは限らないからだ。

VO2Maxが伸びるトレーニング論に関する科学的知見は、VO2Maxを伸ばすことを目的として長距離をやっている人には有効かもしれないが、競走に勝つ、自己記録を更新することを目的としている人にとっては有用ではない可能性がある

というのも、VO2Maxが伸びてもパフォーマンスが上がらなかった、あるいは落ちたという研究だって存在するからだ。

僕がVO2Maxを伸ばすことを目的に練習を組むことが長距離パフォーマンスの向上にあまり有効でないと考える理由は、VO2Maxに達するようなペースはレースペースより遥かに速く、こうした練習ばかりしていると他のペースでの練習がおろそかになるからだ。

また、無気的な能力は養成されるが、長時間は走れないから有気的能力の向上にはあまり効果的ではない。5000mですら90%以上が有気的能力に由来する(実はこれも根拠のない話だが)というのに、残りの10%弱ほために筋肉や循環器系への負荷が大きい(回復に時間がかかる)トレーニングばかり行うのは理にかなっていないということだ。

 

科学とは批判的思考である

科学は、得られた知見だけを切り取って使う、というようなものではない。

それは"科学"かもしれないが、本当の科学ではない。

科学は批判的思考なくして成立しない。盲信したらそれはもう科学とは言わない。「科学のようなもの」だ。

だから、"科学"には注意して向き合うべきだし、本来の科学のあり方のように、批判的に分析し、吟味し、トライアンドエラーを繰り返していく姿勢は、競技力向上に大いに役立ってくれる。

科学の本質は、現象に対する向き合い方にあるというのが、僕なりの一つの理解である。そして、「本来の目的は何だったか?」ということを忘れることなく、目的をかなえるために必要な手法を選択する。科学的知見はそのためのヒントを与えてくれる。そういうものだと思う。