走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

時間を守る

いま(院生になってから)と学部生時代との一番の違いは、組織のルールに縛られているかどうかということだと思う。院生は学部生と一緒に練習することはあっても基本的には彼らと同じチームに所属しているということにはならないからだ。

 

学部生のときは授業や「理にかなった」理由でなければ基本的に練習には出席義務があり、集合時間には間に合うように行動しなければならない。組織に属している以上、それは当たり前である。当たり前のようにそう行動すべきと考えてきた。

ところが、その当たり前がどうして当たり前なのかを問われると意外と説明に窮する。自分は副将だったとき、時間を守ることや無断欠席をしないことはじめとして、各部員に規律を守るように働きかけてきたし、全体の前でも「時間を守るのは当たり前です」という話をした記憶がある。けれど、「どうして時間を守らなければいけないのですか?」と質問されると、うまく説明できなくて、「そういうものだ」「そういう質問が出ること自体不思議」というスタンスを貫いていたように思う。

夏合宿では、遅刻した人にペナルティを課す(洗濯当番など)というルールで取り組んでいる。ただ、一年間チームを率いて全体に時間を守ることを徹底させようと努めてきた経験から言えば、こういうやり方はあまり根本的な解決にはつながらないように思う。何故なら、「時間を守ることの意義」をはっきり理解していない人が、同様にそれを理解していない人へ頭ごなしに注意や罰則を与えたところで、内面的には何も変わらないからだ。

 

では、どうして時間を守らなければならないのだろう。

集合時間に全員集まらないと物事を始められないから?遠征の移動のときなどは確かにそうかもしれないが、集合や練習は一人二人遅刻したからといって始められないわけではない。

時間を守らないことで風紀が乱れ、「あの人が遅刻しているから自分も遅刻してもいい」と考える人が出てくるから?確かにそういうことは起こるかもしれないが、このような説明は根本的なものではない。つまり、時間を守るという行為のメリット(守らない人が出ることによる悪影響)は説明したいるかもしれないが、そもそもどうして時間を守ることに意義があるのかを説明したことにはならない。

 

こういう「当たり前だと思っているけどよく考えてみるとそれがどうしてそうなのか」という事柄は、実は思っている以上に多く存在している。

特に、規律、ルールと呼ばれるものについてはそういったものが数多く存在する。なぜそのようにする必要があるのかわからない校則は、どういった学校にもあるのではなかろうか。ある種学生にとって理不尽にも思える校則が、存在意義に欠いていても存続しているのは、単に統率する側にとって都合のいい理屈を上から押さえつけているだけである。

ところが、僕らのように自主的に運営する団体では、ルールはむしろ自分たちで決めるものだ(本来は学校でもそうであるべきだし、法律も本来なら国民の代表者たちが国会を通して国民の意に添うように決められるべきものだが)。そういった中では、当たり前だと思っているルールの意義を理解するために、その当たり前を問い直す必要があるだろう。

 

どこで読んだか定かではないが、ルールを定めるとき、共同体のレベルに応じてそのやり方がどのようになされるかは次のようになっているという。

レベル1 「これはルールです」として共同体の構成員が何も考えずそれを遵守することを求める

レベル2 どうしてこういったルールが必要なのか、ルールを定める(もしくは提案する)側のものが全体に説明する

レベル3 共同体のひとりひとりが主体的にルールの意義について議論し、必要なものは採用し不要なものは淘汰していく

例えば部活でいうと、レベル1の集団では主将や幹部が「こういうルールをつくります」といって部員が守ることをただ求めるだけ。レベル2では主将あるいは幹部が「こういう理由でこういうルールをつくります」と説明して、部員にそれを守ることを求める。レベル3では、現状に対して部員が「こういうルールが必要では」「このルールは本当に必要か」といった提案から部員同士で議論を行い。ルールを自分たちで作っていく。

 

 

だから、どうして時間を守るのがルールとして当たり前であるべきか、改めてチームの中で話し合ってみるのも面白いかもしれない。特に正解のない問いであるからどちらの方が絶対的に良いなどということはない。競技にはプロセス以上に結果が求められるが、ルールにおいてはむしろそれを決めるまでのプロセスの方が重要なのではないかと思っている。

 

蛇足だが、僕個人としての意見は、「時間を守ることは、集団およびそのメンバーに対する敬意を表すること」というものである。お互い忙しいなかで、それでも同じ集団の構成員であることの象徴として、チームで共有する時間においてはそのチームでの活動を第一に考えるのが大切だから、時間は守るべきだと思う。