走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

続けることの価値

才能と努力

「才能と努力」というテーマは、僕が陸上を続ける大きな原動力の一つとなっている。才能とは何なのか。遺伝子?生育環境?それとも、才能という概念はただの幻想なのだろうか。

「GRIT やり抜く力」(アンジェラ・ダックワース著、神崎朗子訳)によれば、「努力は才能の2倍重要」であり、「才能を讃えるという行為は、努力を諦めた者が、圧倒的な能力を持つ者を神格化し、努力しない自分を正当化するためのものだ」ということである。一方で、こんな文言もある。「限界はある。ただ、それはほとんどの人には関係のないことだ。」限界にたどり着くということはほとんどない。それなのに、限界ではないところで限界だと感じて諦めてしまう。「人には確かに超えられない壁があるが、超えられないと感じて努力をやめるほとんどのケースは、実際には粘り強く続ければ超えられるようなものである」というのがこの本に対する僕なりの解釈である。

今回の文章の結論は、この本の論旨に基づいたものとなっている。その前に少し自分の考えを。

 

努力は目的ではない

努力の努という字は、奴隷の奴に力と書く。努力は心の底から望んでするものではない、というニュアンスがその言葉に感じられる。僕も走ること自体は好きではない。けれど、トータルで見て楽しいから陸上競技は続けるし、速くなるために最低限必要な努力はする。一方で、「しなくてもいい努力」をしていないだろうか、ということは常に考えている。成果に結びつかないことをやる暇があったらもっと時間を有意義に使いたい。ただ、「しなくてもいい」かどうかの判断は難しいし、正解もない。何を選ぶにも僕らには選んだ先の現実しか訪れないのだ。

本来、努力というのは手段である。前回の記事で、目的は手法に先立つという話を書いたが、今回も同様のロジックを用いて議論してみる。努力とは、何らかの結果を出すという目的があって初めて生まれる、手段である。例えば、ウサギがカメとの競走に勝つことを目的としたならば、果たしてウサギに努力は必要だろうか。そんなことはない。生まれつきカメより脚が速いウサギに必要なのは、油断せずとっととゴールまで走り抜けてしまうことだ(それができなかったので、童話でウサギはカメに負けてしまった)。ところが、自分より速い相手に勝つことを目的とするならば、どうにか方法を考えなければならない。コースをショートカットするのはどうだろうか。「それは駄目」というならばどうしてだろうか。勝つという結果だけを目的にするならば、本来その手法は「努力して速くなる」というものに限定されない。ところが、正々堂々と勝負しなければならないという前提があるから、手法が「努力」に限られてしまうのである。

まあそれはさておき、努力が手段ということをわざわざここで強調したのは、努力という手段でしかないものに過度にフォーカスしてしまうと、いつの間にか目的が「努力することそのもの」にすげ変わってしまうことがあるからだ。それは、努力を評価し、賞賛する努力主義的集団に所属している場合に生じやすい。

ところで、次の段落を読んでみてほしい。

スポーツの世界でも、結果を出した者に対してしかその努力が賞賛されることはない。努力が賞賛されると言うより、努力によって何かを成し遂げたということが賞賛されるのだ。その影には、同じように必死に努力しても賞賛される結果を残せなかったために、努力も賞賛されることのない者がいる。

読んでみて、「努力を賞賛する」という行為の不自然さに気がついただろうか。努力主義は努力を評価しているように見えて、実は結果というものの影響を多分に受けているのである。仮に、結果が出ていない者に対しても努力がキチンと評価される環境であっても、結果を出している者の方が、その努力に対する評価も高いものになりやすい。

結果主義になるのは仕方のないことであるように思う。努力は、評価するには基準が曖昧だからだ。タイムや順位と違って、努力は具体的な数値にできるものではないし、数値化しようとすると、いつの間にか努力自体が目的にすげ変わってしまう。今月800km走ったから満足、のように。800km走ってその分だけ速くなったらそれで問題ないが、400kmのときと伸び幅が変わらなければ無駄な努力だし、現実問題としては800km走れば故障や貧血になってしまうことの方が多い。実際にはどちらかやってみないとわからないが、結局のところ「速くなるために800km走った」というのが本来の考え方で、その結果速くなれたらこれからもそうすればいいし、速くなれなければやり方を見直していこうと考えるべきだ。けれど、どうしても「800km走った」ということに満足してしまいがちだ。

集団としても、人が800km走ったら「すごい」と評価してしまう人が多いのが人情だろう。でもそれは本当は正しくないと思う。800km走って、その結果5000mのタイムが1分速くなったら確かに「すごい」が、800km走って大きな故障をしたら「言わんこっちゃない」と言うべきだ。そんなのは結果論ではないか、と思われるかもしれないが、結果主義というのはそういうものだ。だから、結果として起こりそうなことを予測しつつ、うまく結果が出そうなやり方を逆算的に模索し、それを実行していくというのがあるべき姿だ。

つまり、努力が手段であることを忘れ、盲目的に努力することが目的となってしまうと、いつの間にか目指していたところと程遠い場所にきてしまうこともある。「走った距離は裏切らない」という言葉は、走った距離に裏切られなかった人だけに言うことが許されたものであって、それを聞いて「いっぱい走れば速くなれる」「努力は報われる」という思い込みを強化してしまうと、故障の連鎖から抜け出せなくなって余儀なく引退することとなったり、努力にフォーカスしすぎてバーンアウトしてしまうことがある。

 

1番大事なものは

努力とは結果という目的があって初めて必要になる手段だ。そして、才能があるかどうかは究極のところやってみなければわからない。「スポーツの世界で大成した人はみな、持って生まれた才能を並外れた努力で開花させた」という意見に異を唱える人はそう多くないと思う。ところが、才能と努力だけでは偉業を成し遂げるには不十分だ。人並外れた情熱がなければ、そこに到達することは決してなかったのである。

情熱とは、決して現状に満足することのない貪欲さから生まれる。「速くなりたい」「上手くなりたい」「勝ちたい」という気持ちが強い人にとっては、いくら結果の出ない努力に価値など見出さない。そんなこと当たり前じゃないか、と思う人は、部活の同期が毎月800km走っていると聞いたら平静を保てるだろうか。800km走るという「努力」は、誰にでもできることではないから、つい「すごい」と思ってしまうかもしれない。しかし、本当に情熱がある人は、800km走ることが結果のために必要であればそうするし、800km走ること自体に価値は見出さない(ちなみに、ここで800という数字を用いている意味は特にない)。

ベストな努力の形は人によっても状況によっても大きく異なる。自分という人間が、与えられた環境の中で最も強くなるためにはどのようにするのが一番いいのか。あるいは、さらなる成長のために環境を変えることも考えられるだろう(日本の長距離選手で言えば、実業団をやめてアメリカでプロの道を選んだ大迫傑は、「実業団に所属して上を目指す」という既成観念に囚われない並外れた情熱の持ち主だ)。

そして、「GRIT」という言葉の意味するところは、情熱だけでなく粘り強さも成功に不可欠であるということだ。情熱というのは瞬発的では意味がない。今日だけものすごく頑張るのではなく、今日も明日も明後日もそれなりに頑張る。粘り強く何年も(時には何十年も)一つの物事を継続する。この「持続的な熱意」こそが、成功を決定づける要因であるというのが、アンジェラ・ダックワースの主張である。