走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

本質は何か(前編)

ブログだから、少しくらい自分の過去の体験について話しても許されると信じて書いてみる。受験生だったときの話だ。これを読んでいるのは多分ほとんどが大学の部活の後輩だから、受験勉強の話として役に立つことはあまりないけれど、陸上競技にも通ずるものがあるので、書いてみようと思った次第だ。

 

数学ができるようにならない

僕は数学が苦手だった。と言っても、「一般的な」人から見たら苦手な部類には決して入らないだろう。高校受験のとき、僕にとって公立高校の入試問題はあまりにも簡単だったので、公立を受験するのはやめた。ところが、国立や開成・灘といった超難関と言われる高校の問題にはまるで歯が立たなかった。その中では比較的数学が易しい高校を志望していたので合格できたが、大学受験では浪人しても東大模試の数学は3割取れればいい方で、2割を切ったこともあった。英語と理科で稼いで合格点にギリギリ到達できるかどうかというところで、このままでは本試験でボーダーラインでの五分五分の戦いを強いられるであろうことは明らかだった。

数学が苦手だと感じるようになったのは高校受験のときからだ。公立レベルならほとんどの場合見たことがあるような問題しか出ない。初見に見える問題でも、少し考えればだいたい知っているパターンに行き着く。ところが、難関高校の問題は見たことがないようなものばかりで、考えて解く力もなかったから全然解けなかった。

そもそも、僕は数学に限らず、勉強はパターンの暗記だと考えていた。昔からものを覚えるのが大好きで、幼少期には電車の駅名や、動物園の何番の檻に何がいたといったことをすぐさま覚え、祖父を驚かせていたらしい。記憶力が高かったのは生まれつきかもしれないが、小学校の頃そろばんをやっていたおかげで記憶力は強化され、計算力もつき、読書も好きだったから小中学校の勉強は怖いものなしだった。けれど、パズルのように、「考えて解く」遊びはしてこなかった。答えを知らない問題は、せっかちだからろくに考えずに答えを見ていた。答えを見るとなんかわかった気がして満足した。パズルよりクイズの方が好きだった。そういう生い立ちが、考えて解くことのできない頭を作ってしまったのだと思う。

こういう言い方をすると失礼かもしれないが、ほとんどの高校、大学については、パターンの暗記で合格できてしまう。日本における受験勉強のほとんどは記憶力さえあればどうにでもなってしまう。それはある種、「努力すれば勉強はできるようになる」という努力主義を否定しない体制になっているということだから、何も間違っていないとは思う。

ただ、東大にどうしても入りたい自分にとって、「考えて解く」力がないことは致命的だった。東大であっても、英語や理科(あるいは地歴)は努力すればなんとかなるものだと思う。勉強法さえ大きく間違えなければ、時間と労力を費やせば合格点は取れる。統計があるかは知らないが、僕の予想では東大合格者の3割くらいは数学が2,3割くらいしか取れていないと考えているし、数学を克服できずとも、(必死にやれば)一般的な方法で東大入試を突破することはできると思う。その一般的な方法というのは、英語であれば語彙、文法を身につけ、読解問題を解き、精読多読音読を重んじ、リスニングではシャドーイングとディクテーションに取り組む。理科は網羅性の高い解説書を3周読み通してから標準的な問題集を2~3周する。これだけこなせば後は過去問だけやれば十分な力がつく。

ところが、数学はこなした問題数に実力があまり比例してこない。僕も、僕の周りにいた人も、一生懸命たくさんの問題をこなし、パターンを覚え、同じ問題を反復してきた。それなのに、みんな一向に数学の点数は伸びなかった。苦手だから数学の勉強は苦痛だったし、数学ができる頼れる友人もあまりいなかった。

僕はそれまで、努力すれば大抵のことはなんとかなると信じて生きてきて、その姿勢でそれなりにうまくいってきたけれど、それはただ単に得意な物事だったから努力でなんとかなったに過ぎなかった。高校受験では社会も苦手だったけど、克服しなくても合格できてしまった。それだから、苦手な数学を克服するための方法を知らなかった。反復学習以外の方法を僕は知らなかったし、そのやり方ではどうにかなりそうもないのを薄々感じ始めてから、数学に目を瞑って英語と理科でゴリ押してギリギリ合格を目指すか、数学と正面から向き合うか、決断を迫られることとなった。

 

本質を知ることの大切さ

転機は浪人の秋ごろ訪れた。問題集を買うために書店へ赴き、なんとなしに眺めていた参考書の中に1冊の本があった。数学者である長岡亮介氏の「東大の数学入試問題を楽しむ: 数学のクラシック鑑賞」(日本評論社、2013)である。

当時の僕は本を読む暇もなくせわしなく勉強していたけれど、本当は好きに読書をする時間が欲しかった。ちょうど、数学をどうしようか考えていた時期だから、何かヒントがあるかもしれないしこれなら読んでもいいだろうと自分に「言い訳」して購入した。その本が僕の苦手な数学を、周りと差をつける武器にしてくれようとは夢にも思っていなかった。

その本から得た僕にとっての1番の教訓はこうだ。東大の数学入試問題は、本物の思考力を問う傑作ばかりである。解法の丸暗記では到底太刀打ちできない。日頃から、わからない問題があってもすぐに答えを見るのではなく、何時間でも、何日間でも、ああでもないこうでもないと粘り強く考え続ける訓練が必要である。

僕はこの本を読了して背筋が寒くなった。がむしゃらに、必死に頑張っていたつもりでも、東大の数学入試問題を解くという観点からすれば僕のやり方は生ぬるかったのである。

数学は、普通に考えれば時間をかけてもあまり点数の伸びない「コスパの悪い」科目だから、効率を重視するならば英語と理科に時間をかけた方がいいのかもしれない。ところが、もう英語も理科も頭打ちになってきていた僕にとっては、効率という(僕にとっての)「常識」を捨てる必要があった。だから、英語と理科は力を維持できる最低限の勉強時間だけに留め、残りの時間を全て数学のためにつぎ込んだ。

1日に勉強できる時間は限られているから、わからない問題をいつまで経っても考えていたら、ほとんど先へ進めないように思える。ところが、その焦りこそが僕の成長を押さえつけていた元凶だった。そして、わからない問題はいくら考えたところでわかるわけがないという思い込みも、当時の僕に1番必要な努力と向き合う障壁となっていた。

それまで熱心に取り組んでいた問題集も、予備校のテキストの復習もやめて、東大の数学25ヶ年を解き始めた。初見でちんぷんかんぷんだった問題を2時間かけて解けたとき、それはもう嬉しかった。そこから、同じように根気強く時間をかけて考えては解き、という経験を積み重ねていくうちに、「考えても時間の無駄」という焦りや恐怖はなくなった。1週間考え続けて解けたこともあったが、そうして1問1問をまるで骨の髄まで舐め尽くすように解いていくにつれて、僕の中に「本物の思考力」が身につき始めた。25ヶ年はA~Dまで難易度分けされていて、Bまで全部解き終わった後では、難易度Cの問題も少し考えれば解けることが多くなっていた。難易度Cというのは試験場で見たら即捨てるか、部分点を少しだけ取れれば御の字というような問題である。難易度Dの問題は試験場で解ける人はほぼ皆無というような、半ば出題者のお遊びのような問題だが、そういった問題も何問か解けた覚えがある。

一通り解くのに2ヶ月くらいかかったが、その頃にはもう数学は苦手ではなくなっていた。むしろ、予備校の冬期講習の「東大理類数学」のテキストを予習で全問解けてしまうくらいになってしまった(授業で新しく得た知識はなく端的にお金がもったいなかった)。東大模試の過去問集は本試験よりはるかに簡単だった。本試験が思考力を問うているのに対して、東大模試は見かけだおしのような問題ばかりで、ちょっと思考力が身につけばあっさり解けてしまうことが多いことを知った。長岡氏が東大の数学入試問題が「名作」と表現するのも納得できた。

実際には僕より数学ができる人はいくらでもいたと思うが、受かればいいと思っていた自分にとっては数学で安定して高得点を取れることだけが大事なのであって、何番で合格するとかそういうことはどうでもよかった(というか、何番で合格したかなんてわかるのだろうか)。したがって、その目的を達成するために必要な力は十分つけることができたし、その時点でもう試験当日になったのでそこから先へ進むこともなかった。

試験当日はなんだかんだ緊張してしまって1問目を完答するのに1時間半使ってしまったが(試験時間は2時間半で、大問6つの120点満点)、そのあと調子が出てきて結局得点率は6割だった。普段のようにはいかずとも、どんな問題が出てもあっさり解けるくらいの地力をつけておいたおかげで、試験場でも心に余裕を持つことができた。

 

本質は何か

僕は、東大の数学入試問題を解けるようになるためには25ヶ年を時間をかけて解きさえすればよいとか、そういう短絡的な結論を導くためにここまでの話をしてきたのではない。

人にはそこまで意識しなくとも、「普通にやっていれば」できてしまうことはたくさんある。生まれてすぐの赤ん坊が自力では何も出来なくとも、育っていくうちにできることが増えていくのは積み重ねの結果に他ならないが、そうして積み重ねていけば自然と多くのことができるようになっていく。その延長で、「普通に」勉強していれば、東大の数学入試問題もあっさりできるようになってしまう人もいるだろう。そういう人は、東大の数学入試問題の本質が何があるかとか、そんなことは微塵も考えないだろう。だって、考えずとも解けるようになるのだ。その背景には、幼少期にパズルが大好きだったとか、論理的に考えるゲームにハマっていたとか、そういうこともあるかもしれない。

ところが、多くの人にとっては普通に勉強していても東大の数学はなかなか解けるものではない。東大模試の平均点がそのことを雄弁に物語っているだろう。本試験より易しい東大模試ですら、多くの人にとって解ける問題ではない。それは受験生の努力不足に起因するものとは思わない。むしろ今の受験生は勉強し過ぎなくらいだ。もう少し自分の身体を労った方がいい。解けないのは、日本の学校や受験で培われる能力だけでは、東大の数学入試問題を解くためには不十分であるからだ。

一方で、考えて解く能力だけでは不十分だ。英語や理科と同様、教科書レベルの知識や公式、標準的な問題の解法を一通り習得しておく必要がある。いくら凄腕のシェフでも材料がなければ料理を作ることはできないのだ。ただ基本的に、東大合格を目指して必死に勉強している人であれば、こうした「道具」のストックは十分できていることが多い。問題は、英語や理科に比べて数学では道具を使う能力がかなり高いことが求められるということだ。

先述したように、パターンの暗記でも、ほとんどの大学には合格できるのではないかと考えている。暗記ばかりといっても全く問題を解かない受験勉強ということはありえないから、最低限道具の使い方は学ぶ。あとは、覚えたパターンの多さで勝負できる。料理の腕がそこまでなくとも、良質な素材と調味料、調理用具一式があればそれなりのものは作れるのと同じである。

東大の入試数学問題を解くのに本質的に必要な力は

「初見の問題を正しく解析し、与えられた情報と問題を解くのに必要な情報は何かを整理し、論理の道筋を正しく構成しながら、所有する知識や公式という道具を使いながら演算を遂行していく力」

である。このうち、最後の「所有する~遂行していく力」以外が「考えて解く」にあたる部分だ。

 

天才が優れた指導者であるとは限らない

上記のようにまわりくどく書いたところで、ほとんどの人が「?」となると思う。同じような経験を共有している人でなければなかなかわかりえない考え方だと思う。そこには、数学が苦手な人はもちろん、数学が得意な人も含まれる。高校時代の友人の中には、赤本を2周しただけで東大に合格した人もいる。そのような世間から見れば「天才」な人は、無意識に本質をわかっているのかもしれない。育つ過程で必要な力が自然と身についただけなのかもしれない。

天才と言われる人でも、人の何倍も努力して高みに到達したことは事実だが、正しい努力のやり方を知っていなければ、つまり本質を理解していなければ高いパフォーマンスを体現することはできない。ところが、本質を理解しているかどうかと、それを一般化して説明できるかどうかはまた別の問題であると思う。天才と言われる人が優れた指導者とは限らないということは、長嶋茂雄さんの例を見れば明らかだろう。

イチロー選手の言葉で前編を締めることにする。

「僕は天才ではありません。どうしてヒットが打てるのか、説明できますから。」