走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

本質は何か(後編)

WhatとHow

こと受験に限らないが、何かしらスキルの上達を図りたいと思い、そのための方法論を知ろうとするとき、僕らはWhat(何をするか)にフォーカスしながらも、How(どのようにするか)は疎かにすることが多い。受験で例えて言うならば、「何の問題集を解くか」はもちろん、「1日何問解くか」「何分かけて解くか」といったこともWhatに含まれる。勉強法、といってもほとんどの場合Whatに含まれることしか説明されることはない。前編に出てきた、「わからない問題は何時間でも何日間でも考え続ける」ということでさえもWhatである。ここでいうHowとは、実際に考えている頭の中でどのように思考が行われているかを指す。考え続けるといっても、同じアプローチに固執し続け、考えていればいつか正解がわかるはずだろうと姿勢で取り組んでいては答に辿り着くことはないと思う。考えうる全てのやり方を限界まで試し、ぶつかっている壁をなんとかして破れないか、アイデアを出し続け、四苦八苦してようやく突破口を見つけられるものだ。そのとき頭の中でダイナミックに起こっている現象、それこそが脳を進化させ、他の問題も解くことができるような力を得ることができる。

Howにあたる部分があまり伝わらないのは、そもそも表現するのが難しかったり、自分でも実際に自分の頭や体の中で起こっていることを把握することができないからだ。Whatにあたる部分は外界からの刺激であり、ブラックボックスである自分の身体を通過して、応答(あるいは結果)という形でアウトプットがなされる。このうち可視化できるのはWhatとアウトプットだけで、自分の身体の中で起こっているHowを知る手段はない。ところが、Howが成長のために極めて重要となるのは、成長とは自分の身体の中で起こる現象だからだ。

中身の伴わない努力は何も生まないことが多い。そう言われれば納得するが、中身というものについては非常に曖昧な定義にしかなりえない。

だから、壁を乗り越えようとするとき、ぶつかっている物事の本質を知ることが重要なのである。本質がわかれば、自分に何が足りないのかが見えてくる。受験勉強をあまりしてきていない人はどういう参考書で勉強していてもそれなりに成績が伸びるから、足し算の発想でも問題ない。ところが、このまま勉強していてもどうやら志望校のレベルに到達できなさそうだ、というときでも、そのまま足し算の発想で勉強を続ける(あるいは「もっと勉強すればできるようになる」と考えてより勉強時間を増やす)ことが多い。それは、足し算の発想しか持っていないことに加え、足し算の発想でそれまでうまく成績が伸びてきたから、そのやり方に固執してしまっているということがある。しかし、そういう場合において実際に必要なのはアテもなく闇雲に勉強することではなく、志望校の問題の形式やレベル、特徴を知り、それと今の自分の学力とを照らし合わせ、足りないものは何かを考える逆算(引き算)の発想である。

 

弱点を克服する

「こんなに勉強しているのにできるようにならないんです!」という人のほとんどは、

・自分がたくさん勉強していると思っているだけで、実際にはそれほど勉強していない(無駄が多い)

・中身の伴わない勉強をしている

・苦手な科目や分野に取り組まず、得意な科目ばかり取り組んでいる

のいずれかに当てはまる(と思う)。

一つ目の場合については最も対処が簡単である。その人に、1週間で取り組んだことを全て書き出してもらうのである。これは、「今でしょ!」でお馴染みの林修先生が語っていたやり方である。単純だがこのやり方の有用なところは、「自分の状況を客観視できる」というものだ。勉強できる人に比べて、実は対して勉強していないということがある。

ただ、今回の記事でフォーカスしているのは後の二つである。中身の伴わない、という表現は意味が広く取られやすいが、ここでは「作業のような勉強」という言葉で表現してみたい。いわばタスクのように「こなす」勉強だ。

習得において反復は確かに重要だ。ところが、反復そのものが機械的動作になってしまってはあまり意味がないのである。「いやだなあ」と思いながらも「ノルマ」をこなすために単語帳の単語を覚えるのと、単語帳一つ一つの単語が文章の中でどのように使われているか、どんな文脈に現れるのかといったことを調べながら覚えるのとでは、(前者の方が遥かに早く「こなす」ことはできても)実際には後者の方がすぐに覚えられる。小テストのために作業のように覚えた単語や例文はあっという間に忘れてしまう。多少見た目の速さは落ちても、丁寧に反復していく方が長期的には早く身につくのだ。

タスクのようになってしまう背景には、嫌い、苦手、つまらないといったネガティヴな感情がある場合が多い。したがって、初めにあげた3項目のうちの最後にあたる「得意な教科ばかり勉強している」というものと共通して、成績向上のうえで取り組むべき課題は「苦手な科目をいかに克服するか」ということである。

上達の過程で苦手なものの克服はどうしても必要になる。大きな目標を達成する上で、何一つ困難を乗り越える必要がないということはあまりない。もしそうなら、目標自体が「なんとなくやっていれば達成できる」程度のものだったということだ。

 

「走る」に当てはめる

さて、自分の経験から学んだことをただ羅列する目的でこれまでの話をしたわけではないから、そろそろ本題に入る。

「走る」ということについても、これまでの話が当てはまる。長距離の練習においても、その方法論は経験的科学的にある程度明らかになっていて、多くの指導者がその著書で語っていることを信じて取り組めば、それなりに実力は伸びる。漫然と走っているだけでは上達は望めないかもしれないが、そうした本の中で説明される「こういう目的でこういう練習をする」という話を元に(それが完全に正しいかどうかは別にして)目的意識を持って練習を継続すれば、足し算の発想で伸びるところまでは伸びる。もし、自己ベストを更新していくことや、年を重ねても同じタイムで走り続けることを目的とするなら、きちんと練習し、きちんと休み、きちんと食べるようにすれば十分達成できる場合が多い。

ところが、自分の「才能」ではどうも手が届きそうもないところを目指す場合、本質的な部分に介入せざるを得ない。その本質的な部分は「身体の使い方」に集約される。

走るという行為は誰でもできるように思えるが、正しく走るということは非常に難しい。それは、正しく身体を使うことが難しいからである。走るという行為は非常に複雑なものだ。重心を前へ進めればよいわけだが、交互に脚を進め腕を振る行為にはどんな意味があるのか。脚の動き一つとっても、使い方が違えば全く違う運動になる。その結果、ストライドが変わったり、同じエネルギーで進める距離が異なったりするのである。

正しい走り方を知るための方法の一つに、世界のトップレベルの走りを見るというものがある。彼らの身体のそれぞれの部位はどのように動いているのかを外から見える形から分析して、そこから彼らの身体の中で起きていることを推測する。

細かな話はここではしないが、トップレベルのランナーは、(ランナーだけでなく他のスポーツのアスリートや武道の達人にもあてはまるが)身体のゆるみ方が尋常ではない。ゆるんでいるという状態はいろいろな説明の仕方があるが、その一つには「筋肉が必要なときに必要なだけ収縮し、そうでないときは完全に脱力している」というものがある。そして、ここでの脱力というのは単に力が入っていないことにとどまらず、骨と分離できている状態まで到達していることを意味する。

 

何が足りないのか考える

そうした「達人」と比べれば自分の走りは足りないところだらけだと感じることだろう。それは仕方ない。大事なことは、具体的に何が足りないのかを明確な形で洗い出すことだ。

大抵は身体がうまく緩んでいないことに起因しているからまずはそれをどうにかするところから始まるが、同時に正しく身体を使うための筋活動の様式も習得する必要がある。理学療法での現場で行われているリハビリトレーニングは注目に値する。何故なら、リハビリトレーニングは、故障などの原因となった部分や故障により弱体化している部分、つまり身体の弱点にフォーカスしてその部位の機能改善を図ろうとする取り組みだからだ。故障をしていなくとも身体を正しく使えていないということは多く、弱点を克服していくことで自然と走力も伸びていくはずだ。

ここまで抽象的な話が続いてしまったので、最後に具体的な一例を挙げて終わることにする。あなたは中臀筋を正しく使って(=膝周りの筋肉で代償することなく)片脚立ちをすることができるだろうか。ランニングは片脚立ちの連続である。片脚に体重が乗ったとき、中臀筋がうまく機能せず骨盤が荷重脚の方へ逃げてしまうようでは、エネルギーロスになるだけでなく膝周りや脛への負担が大きい。正しく使えているかどうかの基準は、素早く脚を入れ替えながら片脚立ちをしても、上体がぐらつかないということだ。かなり走力のある人でも意外とできないかもしれない。そういう人は故障が多いかもしれない。これほど単純に見える動作一つ取っても「正しい使い方」を習得するのでは容易ではないが、ランニングの動作を分解していく中でそれぞれの姿勢を取るのに必要な要素を洗い出し、改善に取り組み続けるということが、本質的に速くなるための正しい努力であるというのが僕の意見だ。

 

ちなみに僕の中臀筋はまだうまく機能していない。