走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

モチベーション

やりたいことはありますか

小さい頃からずっと「人って何のために生きているんだろう」という疑問を持っていた。今はひとまず「人生に意味なんてない」という答に落ち着いている。そう考えるに至った経緯は長くなるのでここでは割愛する。

「意味はない」という表現にネガティヴなイメージを覚えるとしたら、それはあなたが自分の人生に意味を求めたがっている証拠だ。

考え方は人それぞれなので、自分の人生や自分という存在に意味を求めるのも自由だと思う。ただ、宇宙スケールでものを考えたり、量子論的な観点を持ち込んだりすると、どうしても自分という存在が取るに足らないありきたりなつまらないものであるという現実に向き合わされるというのが僕の意見である。

だからこそ、自分のワクワクすることに没頭した人生を送っていたい。陸上との出会いは僕の人生を大きく変えたと思う。研究も、自分の本当に興味のある分野に取り組めていて楽しくてしようがない。

やりたいことがない人生なんてつまらないと思う。けれど、そういう人は意外と多いかもしれないし、僕も中学生の頃まではやりたいことがなかった。

日本に特有な現象であるのかはわからないが、少なくとも日本の学校教育や家庭教育はこういう子どもを増やす傾向にあると思う。

全ての学校や家庭がそうだとは言わないが、日本は学歴社会が根強く、子どもは勉強を「させられる」。勉強が好きな子や、勉強が得意だから苦にならないという子はそれでいいかもしれないが、例えばゲームばかりしていてろくに勉強しない子どもには「そんなことしていないで勉強しなさい」という指導が入ることになる。

こうしてやりたいことを抑圧され、やりたくないことを強制させられ続けると、いつの日か「やりたいことがない」大人になってしまう。

学校教員は「勉強できる人が偉い」という一元的な物差しをこの世の真理であるかごとく信じているので、実はそれが単なる価値観であるということに気がついていない。そんな人たちが公教育を担っていては、モチベーションの低い子どもばかり育ってしまうだろう。

(ちなみに、この辺の話は現在も公立小学校に教員として務める父の口から語られたものであるから、学校教員にそういう傾向があることは経験的に予測できる、ということだ。科学的にはなんの実証にもならないのだが)

勉強をさせられると同時に、子どもは自分がやりたいことをする時間も奪われている。習い事もそうかもしれない。勉強も習い事も将来役に立つかもしれないから、やった方がいいかもしれない。

けれど、自分の好きなことをやる時間は将来の役に立たないと、どうして断定できるのだろうか。

「ゲームのやり過ぎは目に悪い」というのはそうかもしれないが、「ゲームをしても将来の役に立たない」と信じている人(というより親?)が多いのはどうかと思う。むしろ、何か一つのことに熱中するという経験は、自分の生きがいを見つける指標になる。

勉強をすることで広がる選択肢があるのは事実だが、させられる勉強にそこまでの価値はないというのが個人的な意見である。それに、選択肢の多さが必ずしも幸福につながるとは限らない。

 

学校に行って勉強するというのがいわば子どもの「仕事」なので、勉強というものはやりたいとかやりたくないとかそういう問題ではないという批判があるかもしれない。そこで、対象を変えて「大学で陸上に取り組む(それ以外のスポーツでもいい)」ということについて考える。

大学の利点は自由度の高さにある。大学へ入ってから時間にゆとりが生まれ、練習にも自由度が高くなったことで選手としてかなり成長できた。

自由度が高くなるから、部活に限らず自分のやりたいことにリソースを割ける。そんな中でわざわざ運動会に入るのだから、よっぽどやりたい人が集まっているのだろうな、と思っていた。

ところが、モチベーションというのは難しい。入るときには「これがやりたい!こうなりたい!」という熱い思いを胸に秘めていても、しばらくすると惰性で練習をするようになってしまうことがある。

これが、例えば市民ランナーだったら走りたくないときはサボるのかもしれないが、部活の練習は理由なく休むわけにはいかないし、特に練習しない理由がなければ部活のメニューは「やらなければいけない」。人によって陸上への熱意が異なるだけでなく、同じ人でも時期によってモチベーションに波が生じることがある。

 

何が人を突き動かしているのか

モチベーションとは行動の動機づけのことである。ある行動をしたいときの原動力となるものだ。

モチベーションが上がらないのは大抵の場合、報酬がない、あるいは少ないからだ。何か物事を頑張るとき、人は何かしらの報酬を得たくてそうしている。

その報酬は、金銭や名誉といった外的なものだけでなく、脳内報酬(「気持ちいい」という感覚)や満足感、達成感といった内的なものも含まれる。

対校戦で何かの種目で優勝したとき、一般的に考えればその人は「優勝」という名誉(=外的報酬)と、「優勝できて嬉しい」という喜び(=内的報酬)を得るだろう。頑張って練習して自己ベストが更新できたら、「記録」という外的報酬と「記録更新のために頑張ったことが報われた」喜びという内的報酬を得る。

人は、こうした報酬を得ることで「自分のやったことに意味があった」と感じるようにできている。

さらに、外的報酬がなくとも、自分の行動に意味を感じられさえすれば、ある程度の内的報酬が得られるようになっている。「10時間勉強した」という達成感は、その勉強で実際に何かを得たからではなく、何かを得たと感じるから生じているのだ(そのために、大して成果の上がらない努力をがむしゃらに続けて「こんなに頑張ったのに」という結果になることもしばしばある)。

具体的な時代や場所は忘れたが、囚人(捕虜だったかもしれない)にひたすら穴を掘らせる拷問があったという。この拷問は、穴を掘る労働そのものにあるのではなく、堀った穴を目の前で元通りに埋め立てられて、また掘らせるというところにあるという。

囚人達は自分の「穴を掘る」行為が無意味なものであるのを痛感しながらもやめることが許されない。これは文字からでは想像もつかないくらいの苦しみであるらしい。この一連の「掘らせる→埋める→掘らせる→…」を繰り返していくと、精神的におかしくなってしまう囚人も出てくるようだ。あまりに残酷な拷問であるとして、今では行われていない(はず)。

身体的な苦痛をそこまで伴わないにも関わらず、これが拷問として機能していることを考えると、人間の脳は無意味とわかっている物事に取り組むことを相当しんどく感じるようにできているようだ。

裏を返せば、いま自分のやっていることが苦しかろうが、その行為に「意味がある」と感じられれば人は頑張れる(実際に意味があるかどうかは別、というのが恐ろしい話ではある)。

そして、内的報酬だけでなく、成果という形で外的報酬も得られるのであれば、次はもっといい成果が得られるように精一杯頑張ろう、ということになる。

この報酬がやみつきになってしまうと、思い通りの結果が出ないときモチベーションが上がらなくなる。

また、怪我をして練習ができなくなり、どんどん体力が落ちていくときも、それを少しでも食い止めるためのクロストレーニングに前向きに取り組むのもなかなか難しい。それをしたところで、体力の低下を少し遅らせる程度に過ぎないだろうということは容易に想像できるからだ。

 

自分に正直になってみる

モチベーション低下への特効薬はないと思う。やりたくないことはさっさとやめてしまえば楽になる。

やりたくないことでもやるべきだと思う場合、本当にそれをやるべきなのかをよく考えた方がいい。その上で、自分にとって必要だと考えれば嫌でもやるしかないし、実はやらなければならないと思っていただけで本当は必要ないことなのかもしれないと考えてやらないのも自由だ。

重要なのは、明確に自分の意志で選択するということだ。思考は行動のためにある。漫然と行動するのはもったいない。

やりたくなくなったのでやめます、と簡単に割り切ることはできないこともある。

部活に入ったときは熱意があったが、段々とそれがなくなったとしよう。

新しくやりたいことを見つけてさっさと部活をやめて次に進める逞しい人はそれでもいいが、なかなかそういう人ばかりではないだろう。部活をやめるというのは勇気のいる行為だからだ(よく考えるとこれはおかしな話だがここでは気にしないことにする)。

そういうときは、少し距離を置いてみるといいかもしれない。休部も選択肢の一つだ。そして、いつもだったら時間がなくてできないことをやってみる。ひとり旅に出るのもいいし、普段あまり会えない旧友に会ったり、趣味やアルバイトに没頭してみる。しばらく離れてみると冷静になれる。またやってみたいな、という気持ちになることもあるし、そこまでして続けることもないかな、と思って新たな道へ進む決断をすることもできる。

また、やめるほどではないという場合もある。走ること自体は楽しいとか、練習でまわりと競走するのは好きだとか、みんなで練習を頑張ったあとに一緒にご飯を食べるのが好きなどといった理由で続けるのも自由だと思う。

もし集団が「上を目指すことこそ正義」と謳い、それに迎合しないメンバーを排除する、ということをしないのであれば、(集団としてプラスになるかは度外視して)その集団に所属して自分のやりたいことだけをやるのは自由である(もちろん、仕事や出席などの所属者の義務は果たす前提で)。

集団として強くなることだけを考えるなら強豪のように排除を行うのも一つのやり方だが、それがされないのなら集団の大義に必ずしも従わなければならないわけではない。

一番よくないのは、集団の大義と自分のやりたいことが噛み合わないことに罪悪感を抱えながら続けることや、集団の大義のために自分のやり方を犠牲にすることだ。

 

この道の先がどうなっているかはわかり得ない

念のため、最後に弁明しておくと、これは別に一般論でも何でもなく一個人としての僕の意見なので、やりたいことがないといけないとか、モチベーションが高くなければいけないということはない。自分が正しいと思うように生きるべきだ。

前も言ったけど、正解なんてわからない。どんな道を選んでも、そのときは絶対に正しいと思って選んでも、何かしら後悔は残る。人間はそういうものだ。そう思っていれば苦しむことはない。

後悔にもあまり意味はない。うまくいかなかったとして、もう一方の道を選んでおけばよかったと言ってもそれは所詮結果論だし、もう一つの道を選んだ結果はもっとひどいものになっていたかもしれない。それでも後悔してしまうのは仕方ない。そういうものだから。