走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

価値の再生産構造

半年くらい前、学外の競技場で練習していた時の話。

一般開放で近所の高校生も練習していて、トラックの内側で腕立て伏せをしているのを見かけた。そばに先生と思われる大人がいたので、高校生たちはおそらくその先生から指示を出されて腕立て伏せをしていたのだと思われる。

(素人なりに)あれこれ研究してきた自分には、その腕立て伏せが走力向上にはほとんど寄与しない(ひょっとすると逆効果になっている)ことは明らかなように感じられる。

それでも、先生は高校生に腕立て伏せをするように指示するし、高校生は先生から指示されたら何の迷いもなく腕立て伏せをする。

以前に書いた青トレについての記事で「正しくトレーニングしなければ意味がない」ことを話した。

本当に正しく行えば腕立て伏せによって脚を速くすることもできるのかもしれない。

しかし、少なくともその高校生がやっている腕立て伏せは、腕の筋肉、とりわけ肩伸展に対してブレーキとなる上腕二頭筋を固め、肩伸展の阻害となるような形で腕の筋肉を養成するのにうってつけのやり方だ。

そんなことを当の本人は知る由もないし、それを見ているはずの先生さえおそらく何もわかっていないのではないかと思う。

先生がそのようなトレーニングを課すのは、「そのトレーニングの目的と期待される効果」を理路整然と説明することができるからではない。ただ、「自分もそうしてきたから」「そのように指導されてきたから」だろう。

 

このように、指導者や教育者が自分の教わってきたことをそのまま教えるような話はいくらでもある。

そういう指導を行う者にとって、指導者とは絶対的な存在であり、被指導者は指導者にいわば服従する存在である。

服従というと大げさに聞こえるかもしれないが、指導者の言葉を特に疑うことなくただそれに従っているのであれば、それはもう立派な服従である。

この構図の問題と言えるところは、教えている物事の賞味期限がはるか昔に切れているにも関わらず、今の時代にも全く同じように成り立つかのごとく教えているところにある。

情報はアップグレードされ、正しいと考えられていたことが実は正しくなかったことが科学的に証明される。そんなことは日常茶飯事である。アインシュタイン相対性理論でさえも誤りが指摘され、アップグレードされていくのだ(詳しくないので断言はしないが、たぶんそう)。

そんな中で、既に古い、正しくないとされていることを、今の時代においても正しいと信じて疑うことなく教えようとする姿勢は改められる必要がある。少なくとも、何が正しいかは断言できないということを常に頭に置いておくべきだ。

だからこそ、教育者自身が常に新しい情報を得ようという姿勢を持つべきである。教えるものが不勉強では元も子もない。ここでの勉強というのは既存の知識の焼き直しではなく、新しい知識を得ること、あるいは既存の知識の正当性について吟味することである。

 

指導者自身の経験が指導に一切役に立たないと言っているわけではない。経験を盲信してはならないというだけだ。

教育者、指導者が自身の経験にすがってしまう理由は簡単だ。そうする方が容易いからだ。

考えない方がはるかに楽だからだ。

どういうことか。

「自分はこういうやり方で取り組んでうまくいったから、同じやり方で生徒たちも実力を伸ばすことができる」

「自分もそのように指導されてきたから、きっとこのやり方には効果があり、それを信じて生徒に地道に継続させることで実力を伸ばせるはずだ」

経験にすがった指導には、このような思惑が存在する。しかし、この考え方は正しいと言えるだろうか。今思いつくだけでも突っ込みどころは少なからずある。

列記してみよう。

  • 自分がうまくいったのはそのやり方をしたからとは限らない
  • 自分に有効だったとしても同じように生徒たちに有効とは限らない
  • 自分も指導されたからといってそのやり方が有効とは限らない
  • むしろ逆効果となることもある
  • 何のためにそのやり方を取るのかという明確な目的がない
  • 生徒の個々の課題を顧みず一般論としてのやり方を強要している

一言でまとめると「あまり考えていない」ということになる。

 

考えていない指導者のもとでは考えない生徒が育つのも無理はない。

そういう環境で育ち、思考停止したままでいる生徒が指導者の価値観や経験をいつの間にか正しいものだとみなすようになってしまうこと、それこそ僕が「価値の再生産構造」と呼んでいるものだ。

  

では考えて指導する、あるいは考えて物事に取り組む(取り組ませる)とはどういうことなのか。

それは次の記事で述べたいと思う。