走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

走行距離信仰

院試も終わりようやく一息つけそうなのでまた時々書いてみようと思う。結果はまだわからないけれど、どちらに転んでもその現実と向き合わなければならないだろう。

 

もう9月になり暑さも少しずつ和らいできた。今年の夏も特に故障なく淡々と練習を継続できている。これまで通り、研究と両立のため「8割運行」である。

後輩たちは毎年のように北海道で合宿に取り組んできた。自分が学部生のときは北海道の気候が合わないために何かと苦労をしてきたわけだが、後輩たちも合宿での練習状況は人によって明暗が分かれたように見える。

今年はチーム全体で走行距離を増やそうという方針を取っているようである。別にそのこと自体は良くも悪くもないと思う。人それぞれ合う合わないはあるし、同じやり方でもそのときどきによってうまくいくときといかないときがある。自分の体と相談して、自分が正しいと思えるやり方を取るのがベストだ。しかし、今回の合宿に限って言えば、そのようなやり方を取れるだけの経験がまだなかった下級生を中心に故障者が続出したようである。

だからこそ、走行距離信仰について言っておきたいことがある。

 

走行距離信仰は日本の(ひょっとすると世界でも?)長距離界において根強い人気をほこっている。どんな種目であっても一流となるためにはとてつもない練習量が必要不可欠であり、一流選手はみなそれをこなしてきたことは事実だろう。そして、野口みずきさんの「走った距離は裏切らない」という言葉があるように、長距離界では「たくさん走ればその分速くなれる」あるいは「たくさん走らなければ速くなることはできない」ということがまことしやかに語られている。

箱根駅伝で活躍する選手たちも、世界選手権で上位争いをするランナーもみな、途方もない練習量をこなしてきている。それは紛れもない事実だ。

けれど、その陰にはその何倍、あるいは何十倍もの「潰れた」選手たちが存在していることもまた事実である。

「たくさん走れば速くなれる」というのは半分正しくて半分正しくない。たくさん走ることで飛躍的に速くなれる人もいるし、練習しているのに一向に速くなれない人もいれば、故障がいつまでたっても治らずそのまま競技から身を引かなければならない人もいる。ところが、世間で日の目を見るのは成功した人だけであり、彼らのやり方があたかも絶対的な正解だったかのように語られる。その陰にあるおびただしい数の「失敗者」の存在はそこまで注目されない。これは科学においても言える。僕らが論文としてその情報を知ることができるのは成功した結果だけである。「やってみたけどダメだった」ことは当然表には出てこないから僕らは知る由もない。だから、「これをこうしたらこういう面白いものが見えるのではないか」というアイデアが浮かんで実際にやってみたらダメだった、という物事で、実はもうすでに誰かが同じことをして同じようにうまくいかなかったということが起きている可能性も十分あると思う。

どんなスポーツ(特にチームスポーツ)でも強豪校において過度に厳しい練習が課されるのは、そのやり方が全員にとって最適であるからではない。チーム全体で見たとき、試合に出るメンバーの能力の合計値が最大になるようなやり方だと考えられているからだ。例えば、箱根駅伝で言えば10人の合計タイムが最も速くなることがチームにとって最重要なのであって、最終的に誰がその10人になるかはそこまで重要ではない。

このやり方はある意味平等なやり方である。誰かを特別扱いしないということであるからだ。語弊があるといけないので述べておくが、「誰でもいい」という意味で言っているわけではない。ただ、チーム全体での最適解を考えたとき、練習はどうしても厳しいものにならざるを得ない。仮に故障や不調で選手を引退しなければならない人が現れても、それはチームのためだから仕方のないことであるし、選手自身もそれを納得して引退するのではなかろうか(この辺はデリケートな話題なので自分のような無知な者があれこれ言うのは本来望ましくないかもしれない)。

一方で、チームではなく個人としてのパフォーマンスを最大化することを目的とするなら、同じやり方を取ることが常に正しいとは限らない。100人中10人がずば抜けて速くなるが残り90人はまったく伸びないようなやり方であれば、そのやり方はとらない方が賢明というものだろう。自分が「たくさん走ったら速くなる」のかどうかはたくさん走らなければわからないが、「たくさん走れば確実に速くなれる」と盲目に練習するのは考えものだ。

個人として能力を伸ばすためにはパーソナルトレーナーをつけるのが有効だが、なかなかそうもいかない。自分の体は自分自身が一番よく分かっていなければならない。そのためにはどうしても経験が必要だ。どれくらい練習すると故障してしまうかは走ってみないとわからない側面もあるから、故障してしまったときは自分の体について情報を得ることができたと前向きに考えよう。そのときはつらいかもしれないが、長く競技を続けるならその経験は間違いなく役に立つ。

 

頻繁に故障を繰り返してきた自分が今になって思うのは、どう練習を組むかは、自分がどういう方針で陸上をやっているかを先にはっきりさせてから決めた方がいいということだ。僕は学部生の頃、陸上のために他のことを多少犠牲にするのは一向にかまわないと思っていたし、大きな成果を得るために故障のリスクも背負って限界まで練習すべきだと思っていた。その結果、学業には支障が出たし、大きな故障で大事な試合を欠場せざるを負えなくなった。うまくいかなくてしんどいことばかりだったけれど、それ自体は方針を決めた以上、飲みこまなければならない現実だ。方針がぶれることはなかったから、自分の体についていろいろと学ぶことができた一方で、方針に固執しすぎて自分の体を酷使し、他者の忠告をないがしろにすることも少なからずあった。

2年前に救急車搬送されて以来、それまでのやり方を見直すようになった。研究室での生活も始まって、方針も随分変わったように思う。今は毎日を充実させるための陸上競技だ。ちょっとでも違和感や痛みがあればその日はサボる。何日間も走れなくなったらつまらないからだ。そのことで多少走力が落ちても別にかまわない。練習量を増やすために睡眠時間を削ることもやめたし、モチベーションがわかない日は20分だけ走って終わり。土曜日の練習は頑張るけれど設定はかなり余裕を持つ。

練習には真剣に取り組んでいるし、続けるからにはベストが更新できた方が絶対楽しいので、単純に楽しければいいという方針ではない。ただ、日常生活に支障が出るようなストレスが生じない範囲で練習をやりくりしている。研究もあり限られた時間と体力の中で、いかに工夫してタイムを伸ばせるかというゲームだ。走行距離もだいぶ減ってしまったが、走力自体はむしろ学部生のときよりも伸びているのだから面白くてやめられない。

別に前の方針が間違っていて今の方針が正しい、ということを言うつもりはない。学部生のときはがむしゃらに練習して一気に速くなれた時期もあるし、今は伸びているとはいえかなりゆっくりとした成長速度である。大事なのは、

陸上競技の方針が決まっていること(そうして初めて練習の方針が決まる)

・どんなやり方にもいい点と悪い点があり、自分の取るやり方のメリットデメリットを理解しておくこと

・自分で決めたからには、どういったことになっても納得して前へ進むこと

の3点だ。そうして意思決定のプロセスを明確にすることで、陸上競技へのモチベーションもおのずと高まってくるはずだ。