走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

本質的な頭の良さ

先日、ある方へ送った返答文を掲載する。自分なりに考えたこと。陸上にも他の物事にも少なからず関係する話だと思う。

 

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◼️◼️様


先日はお越しいただきありがとうございました。「賢さ、頭の良さは知識の量と比例するか」というご質問への(私なりの)ご回答となります。長くなってしまいましたが、最後までお読みいただけると幸いです。
結論から申し上げますと、「比例とまでは言えないが、(正の)相関はあると考えられる」というものになります(ここでいう相関とは、統計でいうところの相関です)。
まず、「比例とまでは言えない」というところについて説明したいと思います。
東大や早慶の人が演劇の実力でその人に敵わないという話を挙げていましたが、東大や早慶の人の方が知識の量が多いはずなのに、演劇ではご友人の方が優れていることから、「賢さ、頭の良さは一概に知識の量と比例するとは限らないのではないか」という意見をお持ちなのでしょう。
この意見そのものは正しいと思います。賢さ、頭の良さを定義するのは難しいですが、私なりに述べてみますと
「状況を正しく把握し、目的達成のために越えるべき課題を理解し、手持ちの知識を元にそれを克服するための方法を考え、遂行し達成する能力」
というものになります。状況把握、課題理解のプロセスにおいても知識は役に立ちます。知識がなければ考えることはできません。材料なしに料理をしろと言うようなものです。したがって、知識の量が少ないのに賢いということは極めて稀なケースであると考えられます。
一方で、知識の量が多くても、賢いとは限りません。賢さとは、知識を現実の問題に即して運用する能力とも言えます。大学受験の知識が演劇に直接結びつくことはそこまで多くないと考えられますが、演劇の知識が豊富にある場合でも、それを実際に自分の演劇へ応用できるとは限りません。
講演の初めに、青山学院大学陸上競技部の原晋監督のお話をしましたが、原さんは「賢い」人の典型例だと私は考えています。というのも、ビジネスマンとして培ってきたノウハウを、駅伝チームの監督という全く異なる立場で発揮し、結果を出せるチームを作り上げたからです。


さて、ここまで賢さ、頭の良さは知識量とイコールではないという話をしてきました。多くの人が「頭が良いとは知識量が多いことと同値である」と誤解がしているのは、「頭が良いとは勉強ができるということ」という勘違いがあるからです。そして、その背景には日本の受験問題のほとんどが単に知識を問うだけの問題だということがあります。つまり、覚えてしまえば、知ってさえいれば工夫なく解けてしまうもの(あるいは、きちんと問題の内容を理解していなくてもそれなりに得点できてしまうもの)だということです。したがって、受験における偏差値は、本質的な頭の良さより知識量に強い相関があると言えます。
一方で、受験における偏差値が本質的な頭の良さと全く相関がないかと言われるとそうではありません。数学者の新井紀子さんが書かれた「AI V.S. 教科書の読めない子どもたち」(東洋経済新聞社、2018)に述べられている調査結果によれば、基本的な読解能力と偏差値には(正の)相関が見られています(ただし、MARCHあたりを超えるとそこまで大きく差が出なくなるようです)。文章を読めなければ受験問題を解くこともままならないということでしょう。また、MARCHを超えるようなレベルになってくると、単なる丸暗記で高得点を取るにはかなりの努力が必要になり、より効率的に得点できるための手法を考え実行できる「本質的な頭の良さ」を持つ人の割合がだんだんと増えてくると考えられます。
頭がいいかどうかの基準は人それぞれとは思いますが、私の考える「本質的に頭の良い」人は、自分の関心のあることについて情報や経験を元に効果的なアプローチを取り、成長し続けられるような人です。


以上がご回答となります。また何かご意見あれば遠慮なくおっしゃってください。


よろしくお願い致します。