走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

「忙しい」という思考停止

前回

「周囲の評価は度外視して、自分の考えで学科を選べばいい、当然ホワイト学科の方が陸上をやる上ではいいけどね」

という話をした。

今回は、蛇足ではあるけれど、

忙しい学科を選んで両立を図ったにも関わらず、見事に失敗した経験談

を書いてみる。役に立つかはわからない。

 

忙しい学科へ行って最も避けるべきことは、「忙しいことを言い訳にする」ことである。

忙しい学科にいれば、結果が出なくても「忙しいから仕方ないよね」と周りが同情的になる。無意識のうちにその状況に安住してしまい、いつの間にか結果にコミットすることをやめてしまうのである。

そして次に避けるべきことは、「忙しい現実を受け入れず、取捨選択をしない」ということである。

忙しくなるとわかっているなら、それなりに対応策を考えるべきだ。

それなのに、全部やろうとしたから、全部中途半端になってしまった。

 

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僕は進路選択の上ではそこまで深く考えることなく純粋に興味のある学科を選択した。

その学科はどちらかと言えば「ブラック」側であり、進路選択をした当時の部内にはその学科に所属している先輩は一人もいなかった。

ただ、受験勉強で忙しかった高3時代にも実力を伸ばせた経験から、「まあ何とか両立できるでしょう」という甘い見通しでいた(その年の大学受験には失敗したので全然両立できていないのだけれど)。

専攻した学科での履修が本格化した3年次。初めて5000mの自己ベストを更新できない年となった(浪人時代を除くと、陸上を始めてから今に至るまで、5000のベスト更新ができなかった唯一のシーズンだった)。

2年次に患った疲労骨折の影響もあったが、一番大きな理由は「両立できていなかった」ことだと思う。

伸び悩んでいても周りは「忙しいんだね…」と同情的で、うっかり油断すると自分まで「忙しいから仕方ないか」と納得して努力を放棄しかねない状況だった。

だから、当時は「忙しさを言い訳にしてはいけない」と自分に言い聞かせていた。朝5時に起きて朝練して、満員電車に乗って1限から授業に休まず出席し、夕方の空きコマにジョグをして、授業が少ない日にアルバイトを入れた。土日は部活の練習や試合を除くと、大量のレポートをこなすので手一杯だった。

表面的には、部活のポイント練習もこなして間の日もちゃんと距離を走っているのにも関わらず、「なぜか記録が伸びていない」というような状態になっていた。

しかし、睡眠を削って練習時間を確保し、課題をこなし、様々なことを考えなければならない状況(当時は幹部決めが難航していた)において、自分の心は「実力を伸ばす」ということに向いていなかった。

練習をタスクのようにこなし、たいした工夫も分析もせず、「これだけやれば伸びるはずなのになんで伸びないの」と悲劇の主人公ぶっている時点で、まったくもって結果にコミットしていなかった。

外側だけ体裁を整えた、中身のないハリボテのような取り組みだったのだ。

 

このような状況に陥ったのは、自分が忙しかったからではない。捨てるべきものを捨てることができなかったからだ。

何かを得るためには何かを捨てなければならない。

自分が学生陸上をする目的は、自分の実力を伸ばすことで得られる喜び試合で勝つ喜びの二つに集約される。

大学へ行く目的は、自分の興味のある勉強をすること学位を取ることである。

しかしながら、以下のようなものを捨てられなかったことが、本来の目的を達成するための大きな障壁となってしまった。

 

「講義には出席しなければならない」という義務感

果たして自分は出席した講義の内容をすべて習得できただろうか。いや、ほとんど吸収できていない。

一生懸命先生の話を聞いてノートを取り、なるべくその場で理解しようとしていた。しかし、睡眠を削っているから睡魔は襲ってくるし、内容が難解だから聞いてすぐ理解できるようなものでもない。

ただ頑張っているつもりになっているだけで、本質的には何も得られていない。時間の浪費だ。

講義に出ることそのものが時間の浪費だとは言っていない。ただ、それなりの意志がなければ、講義へ出て時間と労力に見合うものを得るのは難しいということだ。

結局のところ、試験前になって必死に勉強し、ぎりぎりで単位を取るのが精一杯だった自分にとって、講義への出席は単なる義務感だった(ちなみに、自分の学科は出席を取る科目が少なかったから、なおさら出席する必然性はなかった)。

さらに、一年経って内容をほとんど忘れてしまったので、院試勉強をするために一から独学でやり直す羽目になった。

人間は必要に迫られなければ目の前の物事に真剣に向き合えない。自分では一生懸命頑張っているつもりでも、実は大して頑張れていないことも多い。それは気持ちの問題ではなく、人間の脳はそのようにできているのだ。

時間というコストを支払っているなら、それに見合うだけのリターンを得なければならない。そのような感覚が当時の僕には欠如していた。

単純に1限に出ないだけで睡眠時間の確保・満員電車からの解放という大きなリターンがある。しっかり睡眠をとって朝練ができるし、電車の中で勉強もできる。

部活の日は4限の後、荷物を背負って駅まで走って電車に乗り、電車の中で翌日の実験の予習をして、電車から降りてグラウンドまで走って向かい、着いた10分後にポイント練習スタート。こんな状況で質の高い練習ができるわけがない。

義務感さえ捨てればはるかに大きなものが得られる。なんでそんな簡単なことがわからなかったのだろう。

 

「周りと同じ科目を履修する」ことへの安心感

卒業に必要な単位数の半分くらいは必修科目で、興味のある物理関連の科目、学生実験、卒業論文が含まれていた。残りの半分は自分で好きに選べる選択科目で、「限定選択」と呼ばれる科目の中から一定数履修しなければならないのを除いて、比較的自由に履修を決めることができる。

僕が所属していたのは工学部で、工学部内であれば他の学科の授業は制限なく履修して単位とすることができた。また、他学部の授業も簡単な申請で一定数までは卒業単位に組み込める。

このような仕組みがあるにも関わらず、僕は周りの人と同じような科目を履修した。具体的には、選択科目のほとんどを「限定選択」の科目で埋めていた。

これらの科目は、物理のほかに情報や数学、回路などといったものが中心であった。こういったものに興味があるなら履修するのは意味があるけれど、僕はただ何となく「みんながそうする」ようにこれらの科目を履修した。

この選択が僕の首を絞めた。

正直、物理以外の科目にはそこまで興味がなかった。当然、学習には身が入らないし、それでいて授業に(義務感で)出席するから時間とエネルギーはどんどん奪われていった。

実は、他学部や他学科の授業のなかにも、物理を扱う科目はたくさんあり、実質的にはまったく同じ分野を扱っているものもあった。

同じ内容なら、1科目分の勉強で2、3倍の単位を取得できることになる。しかも、一つの科目について、複数の先生による異なる流儀の講義を受けることで、その学問を多角的に見る視野も養われる。

あるいは、物理にまったく関係がなくても興味がある授業を履修してもよかっただろう。前期教養課程では、必修科目が理系であることを鑑み、選択科目では心理学や教育学、スポーツ学など、幅広く履修していた。

しかし、「専門課程では専門を突き詰めるべき」「選択科目で情報や数学を勉強することで物理との相乗効果が生まれる」などという不可解な説明を真に受け、周りの人と同じような履修をした。

思考が停止していた。

その結果、「みんなと同じ科目を取っていれば大丈夫」というかりそめの安心感を得るために、もっと合理的な選択をしようという考えが浮かばなかった。

 

「一か月○○km走らなければならない」「毎日走らなければならない」という義務感

これに関しては3年次に限らないけれど、常に走行距離に関する義務感があった。

走行距離を伸ばすことで実力も伸びているならいいのだけれど、3年次は睡眠を削ってまで距離に固執していたので本末転倒だった。

大学生は忙しい時期とそうでない時期の差が大きい。

忙しさに関係なく同じくらい練習しようとするのは思考停止状態で、忙しいなら「いまは忙しい時期だから、練習時間が少ない中でなるべく実力が伸びるよう工夫しよう」とか、長期休暇中は「時間がとれるから量を増やして、その分睡眠やケアの時間をいつも以上に取ろう」というような柔軟な発想をなぜ持てなかったのだろう。

 また、これは学部3年次に限った話ではないけれど、そもそも論として「速くなるためにはいっぱい走ってポイ練も一生懸命走る以外に道はない」という思い込みが、成長の妨げとなってきたことも事実である。

身体のことを一生懸命研究してきたのは、それを生かすことで要領よく走力を伸ばしていくためではなかったのか(この失敗のおかげで院生になってから成長できているとも言えるけれど)。

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「どんな練習をするべきか」という話題は、(陸上に限らず)「強くなりたい」と思うすべての競技者にとって、大きな関心事であり続ける。

そして、あらゆる指導者や科学者が、そのためのソリューションを模索したり、先週に提供しようと取り組む。

情報化が進んだ現代では、これらの方法論はほとんどの人がアクセスできるようになっており、(競技レベルにもよるが)参考になる部分は多い。

しかし、それらの情報を生かす上で忘れてはならないことがある。

それは、トップアスリートのために作られた練習プログラムは、自分の持っている時間と労力のほとんどを陸上に費やせることが前提になっているということだ。

長距離で言えば、プロランナーや、(失礼を承知で言うが)実業団選手や強豪校の推薦入学者などがそれにあたる。

一方で、僕らは学業と競技を両方やろうとしているのだから、そのような前提には必ずしもあてはまらない。

 

日本では「大学は暇で、卒業は楽」だとよく言われる。「両立」と言うほどのことではない、と言われるかもしれない。

しかし(欧米の大学へ行ったことへないので実際に比べることはできないが)、少なくとも僕にとって卒業は楽ではなかった。

確かに、受験が「受かるかわからない」のに比べて、卒業は「しっかり勉強すれば単位は取れる」という点で、失敗するかもしれないというプレッシャーは少ない。

けれど、その「単位を取るための勉強」は、試験前日にちょっと勉強する、程度のものではなかった。

このように、陸上へ100%の時間と労力を割けない中では、陸上に使える限られた時間で、自分の実力を伸ばすために最適なやり方を模索すべきである。

中には、学業に取り組みつつプロ顔負けの練習をしている人もいるが、こうした人は例外的存在だ。

 

忙しいと、つい思考停止してしまう。

忙しいなら、

  • その忙しさを緩和するために工夫できることはないか
  • 限られた時間の中で、最も実力を伸ばせるやり方は何か

ということについてよく考えてみるべきだ。

 

 

 

忙しいから偉い?

後輩とzoomで話をする機会があった。

いろいろと話をする中で、進学先についての相談を受けた。

いくつか行きたい学科の候補があり、その中にいわゆる「緩い」学科(以下、ホワイト学科*)も含まれていた。

後輩は、その学科の分野には興味があるものの、実際に進学するとなると周りから「楽をしている」と思われるのが嫌、というようなことを述べていた。

陸上部には忙しい学科へ進学している人が数多くいる。そんな中で、ホワイト学科へ所属することは「忙しくないことへの後ろめたさ」があるのかもしれない(純粋に興味がある学科を選択している人が多い結果とはいえ、陸上部は運動会の中では異質な集団だ)。

進路という選択において、部内の他者からの評価を気にしている状況だ。

この気持ちはよくわかる。僕自身、他人の評価を気にして生きてきたからだ。

だからこそ、後輩には「他人からの評価を気にして選択すると後悔する」というアドバイスをした。

 

*ホワイト学科

課題の量が多くない、課題や試験で要求されるレベルが高くないなどの理由で、単位を取得して卒業するのが比較的平易である学科のこと。

こうした学科には運動部の学生が多く進学する傾向にある。

そこで教えられている内容は決して簡単ではないが、勉強を最低限で切り抜けようという人が一定数いれば試験の難易度は下がり、したがって単位認定も易しくなる傾向にある。

 

承認欲求を捨てる」という考え方は、「嫌われる勇気」(岸見一郎、古賀史健)で紹介されたものだ。

www.diamond.co.jp

(一般論として、周りの評価を気にして生きることがどのように良くないのか、という話はここには書かない。「嫌われる勇気」は満足のいく人生を構築するために必読の一冊なので、まだ読んでいない人は是非読んで学んでみてほしい)

 

日本には、「忙しいことが美徳」であるかのような不可解な風潮がある。

今はどうか知らないけれど、自分が学部生のときの部内にも何となくそんな風潮があった(恥ずかしいことに、自分もそれに加担している側の人間だったと思う)。

競技者として、その人の評価は究極的にはその人の実力(=自己ベスト、大会での実績)で決まる。その人が忙しいかどうかは関係ない。

しかし、その人がいわゆるブラック学科に所属しているのに、周りよりも圧倒的な速度で記録を伸ばしていると、周りからの評価は「あんなに忙しそうにしているのに結果も出していてすごい」となる。忙しさがその人の評価を実力以上に高くするのである。

一方で、結果が出ていなくても、「忙しいから仕方ないよね」というように、周りからの評価が下がることはない。

逆の場合、つまりホワイト学科だったらどうか。

結果が出ていれば「時間があっていいなあ」、出ていなければ「なんで忙しくないのに結果が出ないのか(≒ちゃんと練習してるの?)」というように評価される。

つまり、周囲からの評価という観点からすると、結果を出していてもいなくても「忙しい方が得」ということになってしまう。

本来、競技者としての評価には関係ない「学科の忙しさ」によって、あたかもその人の競技者の能力が高いように見えてしまう。

学科の忙しさに応じて、試合でボーナスポイントが与えられるわけではないのに。 

 

陸上のことを第一に考えるなら、ホワイト学科へ行く方がいい。

陸上のために費やせる時間は多い方がいいに決まっている。

睡眠をしっかりとればパフォーマンスは上がる。

アルバイトで得たお金でジョグシューズをこまめに新調したり、食費に充てて十分に栄養を摂ったりすることで故障は減る。

もしホワイト学科へ行って、結果が出なかったらどうしようなんて考えるのはやめよう。

ブラック学科へ行けば結果が出なくても言い訳できると考えるのはやめよう。本来、忙しい人は忙しいなりのやり方を取るべきであって、忙しさは何の言い訳にもならない(だって、忙しいとわかっていてその学科を選んだのだから)。

言い訳を準備するのはやめよう。結果を出すための障壁にしかならない。

 

もちろん、陸上だけが大学生活ではない。

ホワイトであれブラックであれ、自分の行きたいところを選ぶべきだ。

そのときに、「周りの評価」という観点によって曇った選択をしないでほしい、という話。

 

 

僕自身はブラック学科を選択した人間だ。

(学科長は最初の説明会で「グレー」だと強調していた)

だから、「ホワイト学科へ行くべき」というのも説得力はない。 

当時は勉強したい分野で学科を決めたとは言え、周囲からの評価を全く気にしなかったと言えば嘘になる。

(高3時代は秋まで部活を続けながら成績も上の方にいたので「すごい!」と周りから言われていて気持ち良かったという経験がある。「ブラック学科でも結果を出してたらかっこいい」という気持ちは少なからずあったと思う)

 

せっかくなので、ブラック学科へ行ってうまく立ち回れずに記録が停滞した失敗談についても書いてみようと思う。次回。

 

「本番力」の鍛え方

「本番に強い」という言葉がある。

練習で今一つ奮わなくとも、ここぞというところではしっかり結果を出せるということだ。

本番に強い人がいればその逆の人も存在する。人一倍ハードな練習を高い水準でこなしていても、期待されていたほどの結果を出すことができない人だ。

学部生時代、まさにこの問題に悩まされていた同期の選手がいた。チームで一番速いグループでポイント練習をこなし、自主練の日も甘えずに距離を踏んでいて力があるのは確かだったのに、対校戦や予選会では思い通りの結果を残せず苦しんでいた。

どちらかと言えば本番に強い側だった自分は、同期として、また一時期はチーフとして、どのようにしてこの問題が解消できるか一生懸命考えた。

しかし、答えが見つからないまま、不本意な結果のまま彼は引退を迎えることになった。

引退に際して彼が残した文章に「(苦しい)努力は熱中に勝てない」という文言があった。彼にとって、陸上競技は結果のために苦しい努力を一生懸命積み重ねなければならないものだが、そういうマインドでは、陸上競技に心から熱中している人に勝てない、ということだ。

この言葉には一縷の真実がある。

「努力しなければ結果は出ない」という考えでいると、試合になると「結果を出したい」という気持ちよりも「結果を出さなければならない」というプレッシャーが重くのしかかってしまう。 

一方、熱中している人にとって、試合は最高にワクワクする場であり、不安もプレッシャーも力に変えて自分の力を最大限に引き出せる。その結果、うまくいけばまた頑張ろうと思えるし、うまくいかなければ改善すべき問題をいろいろ分析してみようと考える。

 

両者とも、結果を出すために努力を惜しまないことは共通している。では、上記のような違いは何によって生まれているのか。

それは、「成功体験に裏打ちされた根拠のない自信を持っているか」ということだ。

それまでの人生で多くの成功体験があると、根拠はなくても「次もうまくいくだろう」と考えることができる。うまくいかないことがあっても、「こういうときもあるさ、でも改善すれば次はうまくいくだろう」と思える。

その結果、適宜やり方はアップグレードされながらも力は着実に伸びていくし、本番では根拠のない自信によって余計な心配に惑わされずに力を100%発揮できる。それによって、次にまた頑張るための活力が得られる。

このようなポジティブループに入ることができれば、本番にもどんどん強くなれる。

しかし、人生の中でどの程度成功体験があったかどうか、ということは、育った環境や周囲にいる人に影響されやすい。例えば、子どもが何かに挑戦しようとしたとき、親が「どうせ無理だよ」と言ってそれを却下する環境では、いつまで経っても成功体験は積み上がらない。

大事なのは「成功率」より「成功した数」であって、トライそのものが少なくては根拠のない自信も育ちようがない。

 

そのように成功体験を積み重ねずに大人になった人がポジティブループに入るためには、一度でもいいから成功体験をする必要があるが、それが簡単にできれば苦労はしない、と言いたい人もいるかもしれない。

そのような人が本番力を鍛えるにはどうすればいいか考えてみる。

本番への強さには「没頭力」が大きく関与している。目の前の物事に入り込む能力のことだ。

このような状態は心理学では「フロー」と呼ばれ、スポーツの現場ではしばしば「ゾーン」と呼ばれる。

ja.wikipedia.org

フローとまではいかなくとも、本番に自分の力を最大限に発揮するには高い集中力を要する。

しかし、今日では、このような高い集中状態に入ることはますます多くの人にとって困難になっている。

それは何故か。

スマートフォンSNSの発達によって、集中がそらされやすい環境が出来上がっているからだ。

勉強するときに他のことが気になって集中できないというのはよくある話だ。一昔前であれば、テスト前なのについつい漫画やゲームに手が伸びてしまう、というものだ。

現代ではスマートフォンSNSがそうしたものの「進化形」として存在している。漫画やゲームと比較して進化しているのは

  • 常に新しい情報が入ること
  • 通知を送ること

である。

通知が来ると人間の脳は快感を覚える。何故なら、「新しく来た情報は何だろう」という期待が生じるからだ。

加えて、過度なコミュニケーションも麻薬的である。SNSでの「いいね」中毒はかなり浸透している。常にコミュニケーション環境にさらされていると、一人で何かに集中するということはますます難しくなってしまう。

刺激が非常に多い現代社会で生き、これに適応してしまうと、刺激が少なくなったとき脳が退屈になって注意を他の物事へ向けてしまう。運転中についついスマホへ手が伸びたり、走っている最中に無関係な雑念に気を取られてしまって体の動きや感覚に注意がいかなくなったりするのはその典型である。

このように、注意散漫な状態が常習化すると、高い集中状態を実現するのは事実上不可能になってしまう。

 

では、このような状態を脱するにはどうすればよいだろうか。

集中力(注意力)のトレーニングとして、最近僕は瞑想に着目している。

瞑想といっても、座禅を組むわけではなく、ただ目を閉じて自分の呼吸に注意を向ける、という簡単なものだ。

瞑想の効果は近年になって科学的に証明されつつある。一般に言われるものは

  • 集中力(注意力)の向上
  • 精神の安定
  • メタ認知力(自分を客観視する力)の向上

などが言われている。いいことづくめだ。

メンタリストDaiGoはしばしばこの話題について解説している。以下の動画では、アスリートを対象にした研究について説明されている。

www.youtube.com

グーグルにおける研修プログラムを紹介している「サーチインサイドユアセルフ」(チャディー・メン・タン)においても、瞑想の効果が説明されている。

 

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http://www.eijipress.co.jp/book/book.php?epcode=2227

www.youtube.com

やり方についてはいろいろ考えられるが、とにかく重要なのは毎日継続することだ。短くてもいいから、長期的に続けられるやり方でやるのがいい。

半分自戒も込めてこのような記事を書いている。というのは、高校時代、試合での集中状態を高めるために以下の本を読み、実際に「ドアノブ集中法」(名前は合っていないかもしれない)に取り組んだことがあるからだ。

www.sunmark.co.jp

実際には次のように取り組んだ。

1.  部屋のドアの前へ椅子を置いて座り、近くに時計を置く。

2.  意識をドアノブへ全集中させ、他のことは考えない。

3.  5分経ったと思ったところで時計を見る。

4.  実際にかかった時間と、頭の中に現れた雑念をノートに記録する。

全部で10分かからないくらいである。これを毎朝起きた直後に取り組んだ。3か月くらい続けたが、引退試合の駅伝が終わったころにやめてしまった。

駅伝では自分の力をフルに引き出して走ることができた。それだけでなく、日常生活においても集中力が上がり、夏は受験勉強の質も高く模試にも結果が現れていた(そのあとはやめてしまったこともあってか勉強もはかどらなくなってしまった)。

今になって、どうして続けなかったのだろう、と後悔している。

このように多くの人が瞑想の効果に言及しているのを知って、今週から瞑想を始めてみた。

続けるには習慣化するのが有効だ。朝食後、歯を磨くまでの15分間を「ゼロ秒思考」のメモ書き(10分)*と、5分間の瞑想に充てることとした。

ここまで1週間続けてきた。まだ大きな効果は実感できていないものの、これを数か月、数年、と続けていければメガ進化できるだろう。

朝ジョグはかれこれ2年以上続けられているので、習慣化さえできれば続けられる自信がある。

 

興味がある方は是非。

 

*「ゼロ秒思考」(赤羽雄二)

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https://www.diamond.co.jp/book/9784478020999.html

 

行動しよう。

実業家の植松努さんによる、「思うは招く」という名スピーチがある。

植松さんは事業の傍ら、子供の頃からの夢であったロケット開発に専心されている方だ。

www.youtube.com

「思うは招く」というのは、決して「思っているだけで叶う」という意味ではない。

植松さんは、一度は忘れてしまっていた子どもの頃の夢をかなえるため、社会人としてそれまでやってきたこととは全く異なる方向へと歩を進めた。

行動が伴って初めて、何かが叶うかもしれないのだ。

 

ところで、この動画に対する両親の反応は、

「植松さんの言っていることは『引き寄せの法則』と同じだね」

というものであった。

引き寄せの法則」というのは、「物事は思った通りに展開される」という、いわゆるスピリチュアル界隈では有名な考え方である。

正直、この反応に対して不快感を覚えてしまった。

 

次に、なぜ不快に思ったのかを考えてみた。

一定数の人を引き付けている「スピリチュアル」というものが、僕にとっては「宗教」にしか見えないということが大きな理由だと思った。

特に、物理を学び、研究している者としては、そうした人たちが物理に現れる「量子」や「波動」といった概念を都合よく切り貼りし、支離滅裂な展開で無知な人を丸め込もうとする姿勢が不愉快なんだと思う。

彼らはそれが正しいと思って一生懸命発信して、聞いている人達も正しいと思って一生懸命聞いているのだから、そうしたあり方は別に否定はしない。

ただ、これは間違いなく「宗教」だと思う。

 

では、どうして「宗教」にしか見えないものと、植松さんの話とを一緒くたにされることに不快感を覚えたのだろうか。

それは、「宗教」には、具体的な行動が欠如しているからだと思った。

神に祈って戦争がなくなるなら苦労しない。

マインドセットが変わるだけでは現実は変わらない。

行動が変わって初めて、現実が好転するのだ。

ブッダもキリストも、多くの弟子たちに教えを説いたかもしれない。その教えが、のちに宗教として形づくられたのかもしれない。

ただ、決して忘れてはならないのは、彼らは哲学者であり、徹底的な「行動主義者」なのである。

彼らは彼ら自身の問題について、彼らの頭で考えて実際に行動してきた。彼らの話は、自身の問題に向き合う中で彼らが考えたことの結晶である。

だから、彼らの話をただなぞっているだけでは何も変わらない。これが「宗教」だと思う。

自分の人生で生じている問題に適用し、彼らの経験をうまく役に立てつつ、最終的には自分の行動を変えていく。そのような向き合い方の方が、はるかに有用であると思う。

www.diamond.co.jp

 

僕は競技者として、(記録の面では)大学の4年間でそれなりに成長した方だと思う。もっと急成長した人はいくらでもいるけれど、うまくいかなくて高校時代の記録を超えられないという人もたくさんいた。

成長できたのは運や環境のおかげでもあるけれど、自分の頭で考え、試行錯誤しながら行動し続けてきたことが一番の要因だと思う。

一方で、僕はリーダーとしてはほとんどうまくいかなかったと思っている。

チーフとして、個々の部員の能力を高めるためのアプローチがうまくいかなかった。

僕は、一人ひとりの意識を引き上げることが大事だと考えていた。定期的に個人面談をしていろいろと話をしてみたり、集合でみんなの心を動かせるような話をするようあれこれ工夫していた(おかげで、一部の後輩から入信したいと言われた)。

これによって意識が変わり、部員の行動が自発的に変われば、自然と結果もついてくると思った。

でも、このアプローチはうまくいかなかった。人の価値観や考え方は長い時間かけて、周りの人の影響を受けながら形成されていくものだから、ちょっとやそっと外から働きかけた程度では変わるものではない。

 

むしろ、行動が変わるためのアプローチを行うべきだったのかもしれない。

そもそも、「やろうという意識はあるけど行動につながらない」という人は少なからずいただろうし、意識が大きく変わらずとも行動が変われば結果がついてくる可能性は上がる。行動が習慣化することでむしろ意識が変わるということもあるだろう。そのような発想にたどり着くだけの想像力が足りなかった。

では、行動を変えるにはどうするのがいいだろうか。

手っ取り早いのは「システムをつくる」ことだ。

具体的に言えば、ルールをつくることや、環境を整えるということだ。

例えば、毎朝走るということをしようと決めた場合。

一緒に練習する人がいれば、時間を決めて集合する。

いなければ、仲間に「これから走ります」と連絡し、終わったら「走りました」と一報を入れる。

もし守れなければ何らかのペナルティを課す。

これは実業家・Youtuberのマコなり社長のやり方を引用してきたもので、「自分との約束は破りやすいが、人との約束を破るのは抵抗がある」という人間心理をうまく利用したものである。

ほかにも、勉強に集中するために、スマホの電源を切り、自習室やカフェなど雑念の少ない場所へ行く、というようなやり方もあるだろう。これは環境を整えることで行動を変える一例だ。

www.youtube.com

 

現実を変えたければ、行動しよう。

なかなか行動できないという人は、行動するための仕組みを作ってみよう。

 

 

僕たちが今やるべきこと(後編)

前回の続き。

 

ここでする話は、人によっては「そんなの当たり前でしょ」と感じるものかもしれない。

膨大に有り余る時間、やれることはたくさんある。ダラダラとスマホをいじっているのはもったいない。今だからこそ、積極的に自己投資しよう。

 

自己投資① 読書

(20代の間は特に)重要とされる自己投資は読書であると言われる。

本屋へ行かずともAmazonでいくらでも本が買える。スマホやPCでも本が読める時代だ。今こそ本を読もう。

何を読めばいいかわからないという人は、Youtubeで本の要約動画を見て、全部読んでみたいと思ったものについて買ってみる、というやり方を勧める。紹介サイトのリンクを拾ったみたので参考にしてほしい。

lasdream03.com

 

自己投資② 技能習得

新しく技能を身につけるのも有意義だ。

後輩のブログで見たのは料理オンライン英会話で、どちらも後々の人生で役に立つ場面が出てくると思うので、優れた自己投資だと思う。

僕は最近、ブラインドタイピングを習得するための練習をしてきた。習得しようと思ったきっかけは論文執筆である。

今は大学へ入れないので実験をすることができない。幸い、(まだ論文化していない)修士時代の成果が複数あるので、これらを学術誌へ投稿するための論文にまとめている。

論文の分量は1本あたり3000語程度で(Nature関連誌などはもっと分量が多い)、全部で3本書くので、結構な量の英文を書かなければならない。

考えながら書くのですらすら書けるようなものでもないが、タイピングに時間がかかれば当然その分だけ生産性が低くなる。

1本書き終わった段階で、「いっそのことブラインドタイピングを身につけた方がよいのでは」と感じ、練習を始めた次第である。

始めて3日くらいでキーボードを見ることなく文章を書けるようになった。それからも練習を続けて、3週間弱で40~50wpmくらいでタイピングできるようになってきている。一日の平均練習時間は45分くらいである。

大事なのは毎日少しずつコツコツ取り組むことだと思う。指の動きを脳が学習するには睡眠が必要だ。指も筋肉なので、短期間で一気にやろうとすると良くない。

練習にはTyping Clubを活用している。無料でほとんどのセッションが公開されており、非常に優良な教育サービスだ。

www.typingclub.com

海外のサイトなので、キーボードが英語配列であり、日本語配列のものを使っている場合は記号の位置が異なるので注意が必要だ。ただ、英文を書く上で頻繁に用いられる記号は限られているので、記号の練習はそこまで必死にやる必要も感じていない。

日本語のタイピングを練習するうえでは「寿司打」などが有名だ。一通りTyping Clubが終わったら、こちらも始めようと思う。

typing.sakura.ne.jp

それから、論文執筆が終わってなお時間が残っている場合には、プログラミングも習得したいと考えている。

プログラミングは手に職をつける上で最強のスキルだと思う。日々、急速にテクノロジー化が進むなかで、世界の変化の速さに比較的後れを取っている日本では、プログラマーの絶対数が足りていないからだ。

最近では大企業のメーカーやIT系のベンチャー企業が、プログラミング経験や専攻に関係なく理系の(偏差値が高い)大学から優秀そうな学生を採用して社内で教育し、そのままプログラマーとして抱え込む、という動きがあるくらいだ。

新型コロナウイルスの影響が長期化すれば、あらゆる物事についてオンライン化が一気に進む可能性がある。テクノロジーについていけない企業はあっという間に振り落とされるかもしれない。

プログラミングについては素人なので、ここに書くことには不正確な情報も含まれると思う。それなりに知識や経験がある人に聞いてほしい。

何を目的にするかでどの言語を習得すればいいかは変わってくる。詳しいことは「プログラミング入門講座」(米田昌悟)を参考にしてほしい。初心者がまず教養として読むのに向いている本。

www.sbcr.jp

上記の本の中でも初心者向けの教育サイトの案内があるが、本に出てこないもので有名な学習サービスはProgateドットインストールなどがある。

prog-8.com

ドットインストール

https://dotinstall.com/

 

プログラミングを学ぶ際、重要なのは「わからないことをすぐに聞ける人が周りにいるか」ということであるらしい。エラーが出てその原因がわからない場合、いつまでも考えるより人に聞いた方が手っ取り早いそうだ。

それから、学ぶ上では何かしら目的がないと長続きしない気がするので、何か成果物をつくる(HP, ゲーム, アプリなど)といいのかもしれない。僕は実験や解析の効率化のためのプログラムを書けるようになるための勉強をするつもりだ。

蛇足だが、数学の能力よりも英語の能力の方が、プログラミングの能力と強い相関を持つそうだ。プログラミング「言語」というだけあって、習得プロセスは外国語のそれとある程度共通している。文系だからできない、ということはないはず。

 

自己投資③ 好きなことを思い切りやる

好きなことを突き詰めることも立派な自己投資だ。何かに夢中になって取り組む経験は多くの学びを与えてくれる。

上達のために創意工夫した経験は、仕事を効率よく切り盛りするうえで役に立つ。

エンターテインメントにどっぷり漬かることで、新たなサービスやコンテンツを生み出すためのアイデアが生まれる。

物事に熱中する力は、困難に思える問題に粘り強く対処するための原動力となる。

好きなことについて生き生きと語ることができる人は、周囲から魅力的で信頼のある人物に見える。

…とここまでは、特に引用も証拠もない私的見解である。

しかし、こうした「役に立つかどうか」という観点を差し引いても、やりたいことがない人生は退屈で、やりたいことがある人生は充実感がある。

このことは、これからの時代においてより一層重要になる。

ここからは、「このまま今の会社にいていいのか?と一度でも思ったら読む転職の思考法」(北野唯我)210~212ページの内容から抜粋、改変した内容である。

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目覚ましいテクノロジーの発展によって、定型的業務(事務職など)はAIへ代替されていき、生活に必要なコストはどんどん減少していく。もしかしたら、贅沢しなければ働かなくても生きていける、という時代が来るかもしれない。

そうなると、人々の仕事への姿勢は次の三つに分かれる。

①好きな仕事をする

②仕事は最低限にして趣味に打ち込む

③(贅沢をしたい、他者に認められたいなどの理由で)嫌々今の仕事を続ける

今は大半の人が、③の働き方を選んでいるが、近い将来、これらの人々が①や②へ大移動する。

しかし、もともと「好きなこと」がない人が好きなことを見つけるのは至難の業だ。

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①や②のような考え方は、若い世代を中心に広がりつつある。

かつて日本には「人生の正解」があった。いい大学へ行く、一流企業へ就職する、20~30代で結婚して家庭を築く、ローンを組んでマイホームを建てる(あるいはマンションの一室を買う)、子どもをいい大学へ入れる、老後は年金で不自由なく過ごす、というようなものだ。

しかし、このような価値観も少しずつ変わり始めている。というよりも、価値観が多様化しており、上記のような(いわば高度経済成長期の名残とも言える)価値観は、あくまで「一つの価値観」に過ぎなくなったのだ。

そして、その価値観の多様化こそ、テクノロジーによって引き起こされたものである。

情報化は様々な価値観を生み、技術は多様なライフスタイルを可能にした。

日本の婚姻率の低下は若年層の経済的問題によるものとされることも多いが、「結婚はするのが当たり前」という価値観が若年層のなかで一般的ではなくなり始めていることも関連しているのではないか、と考えている。

 

話が脱線してしまったが、最後に前後編の内容を簡単にまとめると、今やるべきことは

正しく恐れ、適量の情報を取捨選択しながら自分の頭で考えて行動する

読書、技能習得、趣味への没頭などの自己投資

の二つ。もし役に立つ内容が少しでもあったら嬉しい。

 

追伸

部活がなくてモチベーションが上がらないという場合は無理をせず、しんどくならない範囲でジョグだけでも続けてみよう。ジョグさえしていれば体力はそこまで落ちません。

 

僕たちが今やるべきこと(前編)

言うまでもなく、大変な状況が続いている。

僕自身は単なる学生で、感染症や経済に関してなんら説得力のある議論をここで披露できるだけの見識を持ち合わせていない。なので、情勢や政治に関して物申す、というようなことは特にしない。

その代わり、僕たちが今やるべきことについて、身の丈レベルで考えてみたので書いてみる。

  

このブログの読者のほとんどが自分と同じ学生で、

  • 家で自粛生活を送っていること
  • 経済面で困窮していないこと

を想定し、感染対策や経済的な話は除外して「何をするべきか」という話をしたい。

  

正しく恐れる

まずは、次の動画を見てほしい。日本赤十字社が制作したものだ。

www.youtube.com

 

恐怖は、人間にとって最も強力なdriving force(原動力)だ。

無痛症の人は早死にしやすい。痛みや恐怖は身の安全を守るため、必要不可欠な感覚である(「残酷すぎる成功法則」エリック・パーカー)。

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http://www.asukashinsha.co.jp/bookinfo/9784864105750.php

一方、過剰な恐怖は正常な判断を阻害し、不合理な行動や他者への攻撃へつながる。

特に、ウイルスは目に見えないだけあって、恐怖が伝播しやすい。

kabaneri.com

甲鉄城のカバネリ物語終盤、目に見えないウイルスへの恐怖から人々が無差別に殺し合いを始めてしまう。各種サブスクリプションサービスで視聴できます

 

恐怖に支配されず、正しく恐れるためには、データをきちんと得て分析することが肝要である。

データを正しく見ることの重要性については、「ファクトフルネス」(ハンス・ロスリング、オーラ・ロスリング、アンナ・ロスリング・ローランド)にわかりやすくまとめられている。名著なので、まだ読んでいない人には強く勧める。

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https://www.nikkeibp.co.jp/atclpubmkt/book/19/P89600/


shop.nikkeibp.co.jp

 

以前に紹介した「自分のアタマで考えよう」(ちきりん)にも、データを基にどのように考えるか、についてわかりやすく書かれている。

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https://www.diamond.co.jp/book/9784478017036.html

日本赤十字社の動画にも出てくるが、恐怖は「○○が悪い」「○○のせいだ」というような犯人捜しにもつながっていく。

「ファクトフルネス」によれば、誰かのせいにするのは人間の本能である。そして、犯人を「見つけた」ら、あとはその人(あるいは政府などの団体など)を非難することに終始し、考えることをやめてしまうのだという。

しかし、現実はそう単純ではない。事象に対する原因が一つしかない、ということはほとんどない。

巷でささやかれる陰謀論もこの類だと思う。裏で誰かが糸を引いて現象をコントロールしていて、人々はそれに気づかないまま翻弄され、糸を引く者の思い通りに操られている、というような考え方だ。

実際、今回の件についても、諸外国を中心にいまだに「ウイルスは嘘だ」「政府や世界はパンデミックをでっちあげて人々から搾取することを正当している」という考えを持ってデモや暴動に参加している人が後を絶たない。彼らの考えが100%間違っているなどというつもりはないが、いくら何でも大げさではなかろうか。

裏で人々をコントロールしようとしている人は少なからずいると思うし、彼らは自分の都合のいいように事態をコントロールしようとしていることはあってもおかしくない。

しかし、全ての物事が誰かの思い通りになるということは考えにくい。個人の影響力はそこまで大きくないし、人間にはどうにもならない物事も自然界にはたくさんある。ウイルスは人工的に作ることは可能かもしれないが、人類の知見が及ばないレベルで自然発生する可能性だって否定できないだろう。

それなのに、陰謀論を全面的に信じてしまうのは何故だろうか。あるいは、何かに責任を求めてしまうのは何故だろうか。理由は二つあると思う。

一つ目は、ここまで書いてきた「犯人捜し本能」だ。

そしてもう一つには、「人間は一貫したストーリーに魅力と説得力を感じる」ということがある。

何か一つのものに責任を求めることで、その人の脳内では一つのストーリーが出来上がる。矛盾がなく、現実がそのストーリーに沿ってすべて説明できるように感じる。そのような状態を人間の脳は心地よく感じる。

しかし、現実というのはもっと複雑で、矛盾に満ち溢れていて、偶然の積み重ねで出来上がっている。そこに特定の誰かの意図が一方的に、彼らにとってのみ都合よく作用している、そのようなことは(たぶん)ない。

詳しい話は「人生は、運よりも実力よりも『勘違いさせる力』で決まっている」(ふろむだ)261ページ以降を参照してほしい。心理学を基にして、人間が自覚なく抱えている錯覚と、それに惑わされないための必読の書。第五章までは無料で読めるが、ぜひ一冊通して読んでみてほしい。

www.furomuda.com

 

"infodemic"に気をつける

"How to fight infodemic" by John Zarocostas 

https://www.thelancet.com/journals/lancet/article/PIIS0140-6736(20)30461-X/fulltext

 

infodemicとはinformation(情報)とpandemic(パンデミック)を組み合わせた造語で、あふれかえる大量の情報によって、人々の正常な判断や行動が阻害されてしまうことを意味している。

情報といっても、その中には多くのデマや誤解、噂、取るに足らない情報が数え切れないほど存在している。SNSを筆頭に、インターネットで出回る情報のほとんどがevidence(証拠)なき推測、感想にすぎない。発信者に悪意がなかったとしても、不確かな情報を広げることで生じる社会への悪影響は計り知れない。

ニュースや新聞も同様だ。メディアが発信しているのはあくまでも「視聴者が興味を持つ」コンテンツにすぎない。メディアが不安をあおる傾向にあるのは、(後述するように)人は恐怖を抱く物事に強い関心を持つという性質があるからだ。

日本赤十字社の動画にもあったように、こうした情報をひっきりなしに入れることが、「恐怖に餌を与える」ということである。

 

「気をつける」とは、必ずしもすべての情報に対してevidenceを求めることではない。

まずは、情報を確かなものと不確かなものとに区別しよう。少なくとも、情報源がどこかを確認するようにしよう。

それから、情報を鵜呑みにするのではなく、情報を材料にして自分の頭で考えて行動しよう。情報の奴隷になってはいけない。

また、不確かな情報をむやみに発信しないようにしよう。特にSNSで何かを発言するときには注意が必要だ。自分の放った何気ない一言が、誰かの不利益になってしまうかもしれないのだから。

 

続きは次回。

自分を客観視するのは難しい

一通りシーズンが終わり、冬期練を経てそろそろシーズンインが見えてきた今日この頃。「来シーズンの目標・方針」を各自立てるのが通例になっている。

自分も(特に下級生の頃は)そうだったのだが、傍から見ると「さすがにこれはムリだろ…」みたいな目標を立てるタイプだった。下級生の場合は飛躍的に走力が向上することも珍しくないので、必ずしもマイナスに働くとは限らないけれど。

チーフになり、いわば「管理する」側になって他の部員の目標を目にすると、「さすがにこれは…」と感じることが少なからずあった。

目標を高く設定するか身の丈で設定するかについて正解はないが、自分としては「やる気が出る方」で設定するのがいいと思っている。したがって、部員一人ひとりと話をして、必要があれば目標をより機能するようなものに調節するといったこともしてきた。

また、同学年で(比較的意見を言いやすい場をつくって)目標や見通しに関して互いにフィードバックを与える機会も設けてきた。

自分がこのようなことをしてきたのは、「自分のことを客観的に見るのは難しい」という考えがあったからである。

 

同族嫌悪は「自分自身が無自覚に持っている嫌な部分に対する嫌悪感」

同族嫌悪という言葉がある。

平たく言えば「自分と似たものを嫌うこと」だ。

例えば、ぶりっ子の女性が(自分と同じような)ぶりっ子の女性は苦手、というようなものだ。

この同族嫌悪は、実は自分が同族嫌悪だと気づいていないまま生じていることが少なからずある。

上の例で言えば、自分もぶりっ子(だと思われる行動をしている)であるにもかかわらず、それに気づかずに「あの人ぶりっ子だから苦手」と感じるというようなものである。

どうもあの人は苦手だ、と感じることがあったら、その人の苦手なところを自分も持っていないか考えてみよう。ひょっとするとそれは同族嫌悪かもしれない。

同族嫌悪が生じる理由の一つに、「自分の嫌なところに対する嫌悪感」というものがある。(気づいていない場合もあるが)実は自分も持っている嫌な部分を自分の眼前で披露されている気分になるのだ。

 

自分を客観視するために

なんでこんな話をしたかというと、僕らは自分のことをとてもよく分かっているつもりでいて、実は全然わかっていないということを理解してもらうためだ。

一般に、人には「自分の外側の物事には悲観的だが、自分の将来には楽観的」という傾向があるようだ。

他人のことについては冷静な分析と判断ができる人でも、自分のことについてはどうしても期待を持ってしまう。

これは人類が生き抜くために有利な考え方だったのかもしれない。自分の将来を悲観的にしか考えられなかったら、精神面に支障をきたすかもしれないからだ。

「Think clearly」(ロルフ・ドベリ著、サンマーク出版)の中で筆者は、「期待は8割程度に割り引いて考える」 ということを述べている。

それでは、自分のことについてはなんでも悲観的に考えればよいのだろうか。

 

何が問題になるのか

僕はそうは思わない。

自分に期待するのは、人として健全なことだからだ。

期待することそのものは問題ではない。

問題になるのは、「期待に引きずられて現状認識が甘くなり、最適な行動をとれない」ということである。

例えば、

「○月に14分台を出す」という目標を掲げ、「○○の練習を△△のペースでできなければならない」と考え、無理のある設定の練習をしたり、

故障をして「もう治ったのでは」と期待し、リハビリをきちんとしないまま無理に練習に戻ってまた故障してしまったり、

というような場合である。

 

自分を客観視するために

言い換えれば、現状認識がきちんとできているのなら、自分に期待することは一向にかまわないというか、その方がいい。

「自分を客観視しよう」という言葉がいつの間にか「目標は低めに立てよう」と解釈されてしまって、その低めに立てたはずの目標さえ達成できなくなってしまうことも少なくない。

目標を達成することは大事だが、そもそも目標は自分が成長できるようにするために立てるものだ。したがって、「目標をどう立てるか」より、「立てた目標とどう向き合うか」の方がはるかに重要ではないだろうか。

話を戻すと、自分への期待は必ずしも低く見積もればよいというものではないが、同時に自分のことをあたかも他人のように客観的に分析することが肝心である。

 

最後に、自分を客観視するために何をすればいいか提案する。

一つ目は、冒頭にも述べたように「他者からフィードバックをもらう」ということである。

ただ、このやり方は、指導者がいなければ難しいし、周りの人も自分のことで精いっぱいということもあるだろう。

そこで二つ目の方法だが、「自分の思考を書き出す」というものだ。

自分の外側にある対象は客観視できる。これを利用すると、自分の頭の中で考えていることを可視化すれば、少なからず自分のことを客観視できるようになる。

具体的な話は参考図書を読んでみてほしいが、この手法は思考を整理し行動を改善していくうえで非常に強力であり、陸上のみならず人生におけるあらゆる局面で大いに役に立つものだと思う。

 

 

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