走る前に頭の中を空にしておきたい

陸上(長距離)・博士課程での研究について。

釈明

初めの記事で何やら後ろめたささえ感じるようなタイトルではあるが、livedoor blogで書いていた記事のリンクから飛んできた人もいると思う(というかそのように仕向けた)ので、どうしてここ(Hatena Blog)でブログを書き始めようと考えたかをとりあえず書いてみる。

もともと、ブログを始めた理由は「チーム全体への知識の共有」であった。

当時チームの幹部だった自分が、幹部で話し合って決めた「互いに学んだことを積極的に共有していく」という方針に従って、自分がいろいろ勉強したり考えたりしてきたことを発信するためのツールとして、部員ブログと同じlivedoor blogで記事を作成していくに至った。

そこでは、ある程度客観性のある(= それなりに正しいということになっている)物事を中心に紹介している。自分の経験も少なからず含まれてはいるが、ランニングの理論を学びたい人にとって少しでも有益な情報を提供できればそれでいいと考えてブログを続けてきた。

しかし最近、一つ問題が生じてきたことに気が付いた。ネタ切れではない

こういった目的のブログでは、すでにわかっていること、明らかになっていることを中心に文章を書かなければならない。そうでなければ情報の信憑性が記事によって大きく異なってしまう(そうでなくても結構怪しいところは多い)。

したがって、(まだ明らかではないが)現在進行形で考えていること、答えはないけれども考えてしまうようなことを発信することは難しい。また、大いに主観的であったり個人差が大きいような内容の物事も同様に記事にすることができない。

だったら発信しなければいいじゃん、ということになるかもしれないが、発信したいのだから仕方がない。自分はもともとSNSの類は(時間的制約のため)ほとんど使っていないが、twitterInstagramで自分の生活をオンライン上へ展開する人たちのように、自分の考えていることを外に発信したい。これも承認欲求なのかもしれない。

僕はいつか(とりあえず何についてでもいいので)本を書きたい。

世の中にあふれかえる著書の背景には、数え切れないほど多くの人々の経験や歴史があり、読書とは自分の人生で経験できないことを経験できるという大きな価値がある。一方で、言葉を手にした人類が、自らの経験を他者へ伝えていきたいと考えるのはきっと自然な欲求なのだと思う。

この辺は見城徹著「読書という荒野」(NewsPicks books)で書かれていることを参考にした記述である。読書とは単なる「知識の習得」ではない。読書には思考が伴う。実用書やビジネス書は今すぐ役に立つ知識は書かれているが、著者がそのような知識を得るに至るまでの思索や葛藤についてはほとんど書かれていないことが多いという。どうにもならない現実の理不尽さに向き合わされる人間の情動には、その深みにはほとんど触れることはできないという。

これ以上詳しくは書かないが、読んでいてふと部活の同期を思い出した(この記事を読んでいる人の多くは知っているはずの、日銀へ就職した例の彼である)。「知識がなければ考えることもできない」「人の考えや経験を吸収しなければ何かを深く考えることはできない」と言って月に何十冊も本を読んでいた(今もそうかは知らない)。

そして、インプットしたらアウトプットも必要だ。そう考えるようになった。

ただ情報を覚えるだけではあまり意味がないし、アウトプットをせずインプットを繰り返していると脳のリソースがなくなって機能の妨げになる気がする(あたかも、測定のためのコマンドを入力していくときに必ず出力を返すようにプログラムしないと情報を処理できなくなってしまうのと装置と同じようなものだ。研究室にそういう装置がある)。例の同期も、卒業前の時期にいろいろな人に自分の考えていたことを伝えていた。

「考えて走る」(あるいは「走るために考える」)ことは大切なのだが、同時に「走る前には頭の中を空にしておきたい」。そういう目的でこのブログを開設することにした。

livedoorと切り分けしたいと思って他のブログの中から評判の良さそうなHatena Blogを選んだ。

なので、こちらのブログにはあまり役に立たない記事も結構多くなると思う。僕の話を聞きたいという後輩が少しでもいる間はこういうブログにも価値があるのかな、と思ったりしている。

とりあえず今日はこの辺で筆をおくことにする。更新もかなり不定期になる気がしている。最近livedoor blogの方も月1~2回くらいしか更新できていないが、他大学の人なども読んでくれているようなので細々と続けていこうと思う。