【箱根駅伝予選会2021】試合反省と雑感
ようやく文章を書けるくらいには回復したので、反省と思ったことを書きます。
結果
67'47"(15'51"-55"-53"-16'31"-3'37") PB
チーム内3位、個人384位
元の自己ベストが69'15"なので、1分28秒の更新。
学部1年のとき以来、71分台(たまに72分台)しか出せていなかったので、やっとハーフの沼から抜け出せた気分。
今回は全体として異常に記録が出ているけれど、昨シーズンまでの状態だったら68分台が関の山だったと思うので、走力は伸びていると考えています。
そもそも3'10"の集団なんて怖くてついていけなかったはず。
レースプラン
目標は68'30"。
昨シーズンに出したベストは5000が14'55"、10000が31'13"なので、Jack Daniels理論でいけば68'17"~45"くらいの走力はあると考えての目標設定。
今シーズン距離走を一度しかやっていないので、これ以上攻めるのはちょっと…という感じ。
学部1年次にハーフのベストを出したときは16'08"-20"-33"-40"とかだった。
(立川だったので後半は公園でペースダウンした)
今回は16'00"-10"-15"-30"-3'35"くらいで走る想定。この通りだと68'20"。
同じ集団で走る予定の後輩と、「入りの5km16分フラットでいこう」とだけ話していた。
今年は出場校も多く、同じくらいの集団はできると思っていた。
(実際はできなかったので、3'10"で押し続けることになった。結果オーライだと思うけど)
レース展開
スタート直後、例年よりもすんなり内側へ入れた。
徐々に集団ができて、「速いな」と感じつつも1km通過3'11"、3km9'35"。このままついていくことを決意。
5km通過15'51"で腹をくくる。そこからは何も考えず集団についていくだけ。
ついていくだけとは言っても全然余裕はなかった。
後ろに集団がないので、振り落とされたら単独で一気にペースダウンしてしまうのは必至。なんとしても最後までここで粘りたいと思っていた。
同じ集団に院や学部の後輩が何人かいたのは、精神的な支えになった。
スタート直後から続く腹痛と、体幹のきつさにひたすら耐える。右広背筋が痛かった。
6周目(13km過ぎくらい)で突然脚がきつくなり、そこから15kmまでついていくも、その直後に集団がペースアップした(ように感じた)ところでついていけず。
あとは冷たい風を浴びながら単独走。ジョグくらいまで落ちているんじゃないかとも思ったけれど3'20"にとどめられていた。実質15kmで試合終了していた。
ラスト一周で59分ちょっと。67分台は堅いと感じ、「とにかく事故らず67分台にまとめればいい」とだけ考える。20kmで攣りかけたので、スパートせずゴールまで安全運転。
タイムが伸びた要因分析(全体編)
今回は全体的に記録が上がっていて、その理由は
- 駐屯地周回コース
- 絶好の気象条件(12度、小雨)
- ナイキ厚底シューズの普及
- 学生長距離界のレベルが上がっている
の4点で説明できる。
今回、最も大きい要因はコース。
公認になったというニュースを聞いたときには、みんな
「わーい公認だー」
くらいの反応だったのに、走り終わってみると
「え、これ、公認でいいんですか!?」
という感じ。
東京マラソンみたいに「記録を出させるコース」が世の中には存在するので、まあ、アリかなあ…。
ただ、そのような素晴らしいコースでも、「気象条件」「ナイキ厚底」という二つの条件がなければ決して高速コースたりえなかった。
何故なら、
日陰がないので晴れたら暑いし、
普通の道路より硬いので脚へのダメージが大きい
からである。
そして忘れてはならないのは、学生長距離界のレベルも間違いなく上がっているということだ。
新たに強化校となる大学も増えている。
マラソンの日本記録更新など現役選手の活躍に触発されて、陸上を志す人も増えているのだと思う。
現に、厚底が非公認となるトラック競技でも、例年以上に記録が出ている。
(厚底で練習するようになって怪我しにくくなったから、という人もいるのかもしれないけれど…)
タイムが伸びた要因分析(個人編)
もともとのベストは、学部1年の3月に立川ハーフで出したものだ。
今回速くなった要因と、当時との差分は以下の通りと考えている。
- トラックの走力向上によるもの:90秒
- 厚底の力:30秒
- コースの走りやすさと集団の恩恵:60秒
(時間はわりと適当)
トラックの走力向上によるもの:90秒
当時は15'24"が持ちタイムで、走っても15'15"くらいだったと思う。
(同じハーフで68'30"で走った先輩がその次の月にこれくらいで走っていた。よく一緒にポイ練させていただいた)
練習の3000が9'05"くらい。今は真夏でも8分台で走れる。
5000で20秒差なので、ハーフで90秒くらいはあるはず。
厚底の力:30秒
僕はそこまでヴェイパーフライの恩恵をそこまで受けられていないと思っている。
もちろん、クッションがあるので地面からの衝撃で脚が痛くならない点は素晴らしい。
しかし、スピードの出しやすさという点では、当時履いていたアディゼロ匠戦(初代)に分がある。クッションもそれなりにあって、ハーフでも普通に履けるシューズだった。
残念ながら二代目からは足型にまったく合わなくなってしまった。しかも、ブースト入ってるし…
昨年はアシックスのソーティジャパンセーハで走り、5kmで脚が終了したので、クッションがある方がいいことは間違いない。
しかし、左足の人差し指の爪が当たって途中から痛みが出てしまったので、ヴェイパーも僕の足型に合っていないという問題点がある。カーボンプレートでごり押ししているだけ。
(爪は結局、真っ黒になりそのまま還らぬ爪となった。南無…)
諸々考えて、シューズの力で稼いだ時間は30秒くらいと予想。
コースの走りやすさ・集団の恩恵:60秒
芝浦工大の3'10"のペースメイクが完璧だったおかげで、15kmまでは15分台で押すことができた。
これが10kmだと話が変わっていた。後半かなりペースダウンしてしまっていたと思う。
公園のアップダウンはそこまで苦手な方ではないけれど、フラットの方が走りやすいのは事実。
例年通りのコースだったら30秒以上遅くなっていたと思う。
これらの合計が180秒で、今回は88秒の更新。
逆に言えば、92秒分だけ、当時の方がハーフのための練習ができていた。
具体的には、距離走、日頃のジョグの距離。
今回は予選会で走れるかどうかすらわからなかったので距離走は9月になるまでやっていない。当時は完休なしで月500km走っていたので、脚もできていた。
とは言え、その練習方針を続けたことで2年間故障続きになったので、すんなりそのやり方に戻すのがいいとも限らない。
今後について
今回は、このような社会情勢のなかハーフを走らせてもらえて本当にありがたいと思う。
課題はいろいろあるけれど、冬期練に入るまではトラックに集中する。
11月の10000挑戦会で30'40"、12月の日体5000で14'40"を目指す。
夏から立甲トレーニングを行い、10月に入って腸腰筋ほぐしを始めたことで、ランニングエコノミーが上がり始めたのを実感している。
まだまだ発展途上だけれど、しばらくはこの方針で頑張りたい。
長期的にはハーフも記録を伸ばしたいので、冬季から距離走も再開する。
(というか、長距離パートは現状大学のトラックが夜しか使えず、朝型の自分には相当きついので、部活でロード練習が増えると参加しやすくなってありがたいです…!)
早く駒場で午前練できるようになるといいなあ。
雑感(心の声を箇条書き)
- 今回のコース、一度公認を取ったから今後も公認?これから社会情勢がどうなるかわからないけれど、来年も無観客ということは十分あり得る。そしたら、また高速コースの再来…?(あるいは、日陰なし灼熱コースの到来…?)
- 外側にある給水コーナー、遠すぎて取りに行く気になれなかった。涼しいということ以上に、「集団から離れたら試合終了」が自明だったもので…。
- 今回の周回コース、見ている方も8回見れるから楽しかったらしい。もちろん、現地に来れる人はかなり限られるけれど。
- 声援は禁止とのことだったけれど、「応援してくれる人が常に近くにいる」というだけで、直接声援をもらうのと同じくらい力になった。ありがとうございました。
- 荷物の移動がないのでサポートの人にも優しい。例年だと、IDを持っている人二人で選手全員分の荷物を駐屯地からみんなの原っぱまで制限時間内に運ばないといけない。学部2年のとき、雨を含んで重くなったウェアなどを運ぶのはほんとに辛かった。疲労骨折もしてたし。
- タイマーが二か所にあったのも素晴らしかった。手元で測っているとは言え、ラップとトータルをいちいち切り替えたくないからあった方がいい。
- スタートは密になるのが自明ということで、例年の「全大学一直線方式」から二段スタートへ変更。これも良かったので、無観客とか関係なく今後もこのやり方にしてほしい。若干後ろからのスタートになるけれど、スタート直後の一争いに巻き込まれず、例年より余裕を持ってインコースに入ることができた。某後輩はスタートで目の前にいた山梨学院大を「半分食います」と言っていて、3人食った。すごい。
- このような社会情勢で、学生へ最大限の配慮を持って標準の引き下げと予選会の開催を実現してくださった、学連をはじめとするすべての関係者に感謝(絶対見ていないと思いますが)。標準が例年通りだったら僕らは出場できていませんでした。ありがとうございました。
【DC1面接免除採用】学振申請書の書き方
博士学生みのん(@min0nmin0n)さんの、学振申請書の書き方に関する以下の記事が面白かった。
博士進学を目指す学生にとって、有益な情報であふれている。
申請書の作成は1月から始めて、第67版が最終版だったらしい。
ここまで徹底して取り組める方もそうはいないと思うけれど。。。
一般に、学振は
「採用されている人が多い研究室にいるほど採用されやすい」
傾向にある。
審査基準が偏っているとか、そういうことではない。
そのようになる理由は、
採用されやすい申請書の書き方について、研究室にノウハウが蓄積されているから
である。
一方で、周りに採用されている人が少ないと、上手い書き方を学ぶことができず、なかなか採用されないという話も耳にする。
ノウハウを知っているかどうかで、勝率が大きく変わってしまうのだ。
僕は学振DC1に面接免除採用内定となり、令和2年度(2020年度)より特別研究員となった。
(なお、本記事執筆は2020年10月)
修士時代、研究室に特別研究員の先輩が5人(うちDC1が3人)いたので、かなり恵まれた環境で申請書を作成することができた。
今回は、先輩たちの申請書に学び、実際に自分も採用を勝ち取ることができた経験に基づいて、僕が考える「採用されやすい申請書の書き方」について、まとめてみた。
個人の見解も多々あると思うので、参考程度に読んでいただければと思う。
もくじ
前提:DC1で業績は重要?
業績がある方が有利なのは当たり前だ。
しかし、業績がある=採択、というわけではない。
お世話になった博士課程の先輩5人のうち、3人がDC1、あとの2人がDC2に採用されていた。しかし、内訳を見てみると、
- DC1採用、申請時に第一著者論文あり:1人
- DC1採用、申請時に第一著者論文なし:2人
- DC2採用、DC1申請時に第一著者論文あり:2人
となっている。ちなみに、論文はいずれも査読あり英語論文、インパクトファクターは3~5くらいで、第一著者なので業績としては十分すぎる。
論文があれば必ず通るものではないし、論文がないからといって採択されない、というわけでもない。
DC1であれば論文を持っていない人の方が多数派だと思うので、申請書の比重は必然的に高くなる。
申請書を書き始める前にやるべきこと2つ
実際に申請書を書き始める前に、次の2つのことをやるべきだ。
①先人の申請書を入手する
ノウハウを学ぶ上で一番の教材になるのは、実際に採用を勝ち取った申請書にほかならない。
先述したように、僕の研究室の先輩は、学振特別研究員が5人いたので、採用された申請書を複数いただくことができた。
もしそういう研究室にいなければ、同じ専攻で学振に採用されている人に申請書をもらえないか頼んでみた方がいい。
それが無理な場合は、違う分野でもいいから申請書をもらえる人にもらっておいた方がいい。
あるいは、インターネットで公開されている申請書を入手するのも一案である。
②申請書のストーリーラインについて、上司に同意を得ておく
申請書は、
研究の背景 → これまでの業績 → 現状の課題 → これからの研究計画
というストーリーに沿って書くことになる。
本文を書く前に、絵コンテなどで全体の概要をまとめておいた方がいいことは言うまでもない。文章を書きながら次のことを書くのは効率が悪いからだ。
そして、ここで言いたいのは、
「あらかじめ作ったストーリーラインについて、本文を書く前に上司に合意を得る」
ということである。
申請書は後々、上司(先輩や助教、教授など)に添削してもらうことになる。その際、
「そもそも、ストーリーおかしくない?」
という指摘をされてしまったら、それまでに一生懸命書いた文章はすべて水の泡。
端的に時間の無駄だ。
これを防ぐためには、本文を書く前に上司を打ち合わせをして、どのような流れで書くのかをはっきり決めるべきだ。
僕も、締め切りの1か月半前にストーリーラインを教授と打ち合わせしてから書き始めた。
そのおかげで、申請書の中身を大きく書き直すようなことにはならなかった。
申請書を書く上での最重要ポイント3選
申請書を読む審査員も人の子だ。
客観的に判断しているつもりでも、どうしても認知バイアスを打ち消すことはできない。
したがって、申請書の見栄えが良ければ、その分採用されやすくなる可能性も高くなると考えられる。
実際、僕の研究室の先輩たちの申請書は決まって体裁が良かった。
そのような申請書を書くために、最も重要だと考える3つのポイントについて解説する。
①かっこいい図や写真を載せる
審査員の立場になって考えてみよう。
審査員は膨大な量の申請書を読まなければならない。したがって、全ての申請書について全力を持って対応することは不可能だ。
そのような中、審査員に「これいいかも?」と思わせ、実際に本文をしっかり読もうという気にさせるのは何か。
見やすくてかっこいい図である。
就活の面接で、その人を採用するかどうかは最初の10秒で決まってしまうと言われている。そして、残りの時間は、最初の10秒で得た印象を正当化するための根拠を作るだけにあるそうだ。
この話がどこまで本当なのかはさておき、第一印象というのはそれくらい大きなインパクトを与える。
そして、申請書における第一印象を決めるのが図にほかならない。
図や画像は文字に比べて圧倒的に情報量が多い。
本文のエッセンスが図に凝縮されていれば、その分だけ本文をきちんと読んでもらえる可能性もぐっと高まる。
僕の考える「かっこいい図」とは、
- 立体感や臨場感がある
- 何をしているかが一目で理解できる
というものだ。
イメージ図はなるべく立体感がある方がいい。Powerpointでも3D書式を利用すればそれなりにかっこいい図を作ることができる。大学でライセンスが配布されているなら、CADを使うのも手だ。
複雑な図になってしまう場合は無理に3Dにしなくてもいいが、見栄えに気を遣った方がいい(最終的にはグレースケールで提出することに注意)。
実験の様子や装置、実験対象などを写真で載せるのもいい。
もちろん、グラフは立体化する必要はないので、プロットのサイズや軸ラベルがはっきりと見える大きさになっていればそれで十分。
NatureやScience及びその姉妹紙に掲載されている論文の図が参考になる。
②わかりやすい見出しをつける
それぞれの記入枠の配分などは自由に決められる分、読む人に「どの情報がどこにあるか」がすぐに見つけられるようにした方がいい。
「研究の背景と問題点」「解決方策と研究目的」などといった見出しをつけながら、枠の中をさらに小分けにして各項目ごとにパラグラフを作っていくのが効果的だ。
その際、見出しは
- [ ]や< >でくくる
- 本文より少しだけ大きいフォントを使う(本文11pt見出し12ptにするのがおすすめ)
- 太字にする
というようにして、本文よりも目立たせる。
同じ項目の中で小見出しをつける必要がある場合(業績や研究計画が複数ある場合)については、それぞれの小見出しに下線を引いて並列関係にあることがわかるようにする。
③本文の中でも太字を活用する
本文中に現れるキーワードや重要性が高く強調したいところは太字を用いる。
下線や網掛けでも強調できるが、太字の方が文字そのものが視覚情報として入りやすいので、太字の方がいいと思う。
太字は、
「太字しか読まなくても8割の内容は理解できる」
ように使っていくべきである。
だからと言って、文字の8割を太字にすればいいという意味ではない。あまり太字だらけだと何が重要なのかかえってわからなくなってしまうので、2, 3割に抑える。
全体の2割の文章で全体の8割の内容を説明するにはどうすればいいか、何度も申請書を読み直して考える。
全体を200字要約してみて、要約に利用した部分を太字にする、というのも一案だ。
本文が書けたら
申請書を書く前に、あらかじめ上司とストーリーラインを決めておけば、「何を書くか?」という点については後から大きく修正する必要がなくなる(ことが多い)。
ところが、内容が決まった後でも、それを「どのように書くか?」という点は何度も修正することになる。
よりわかりやすく、より有意義な研究に見えるように、何度も改良を重ねるのだ。
ここでは、
①書いた文章を音読して、読みにくいところ、わかりにくいところを直す
②上司(先輩や助教、教授)と文章の読み合わせをして、表現を直してもらう
という二つのプロセスを経ることをおすすめする。
①書いた文章を音読して、読みにくいところ、わかりにくいところを直す
書いた文章を読み直してみると、書いているときは気づかなかったミスが少なからずあることに気づく。
全体を通読してみると、「この項目はなくてもいいな」「ここはもう少し膨らませよう」など、配分の再調整をする必要に気づくこともある。
文章を読む際には、声に出して読んでみるのがいい。流し読みでは気が付かないような、読みにくいところやわかりにくいところを発見できる。
②上司(先輩や助教、教授)と文章の読み合わせをして、表現を直してもらう
上司に文章を直してもらう際、ただ文章を送って「添削お願いします」とするより、時間を取ってもらって読み合わせをした方がいい。
読み合わせをするメリットは、
- 上司が集中して文章の添削に取り組んでくれる
- 表現の修正についてリアルタイムで議論や相談ができる
- 上司の前で音読することで、表現に自信がないところ、違和感があるところを洗い出せる
などがあげられる。
自分ではいいと思っていても、上司に直してもらうと「こっちの方がいいな」となることが多い。
読み合わせは最低でも1~2時間くらいかかる。
お願いする場合には、スケジュールを確保してもらえるように早めにアポを取っておこう。
そうすることで、疑似的な締め切りもできるため、早めに申請書を書き進めようという気にもなる。
もちろん、上司から「時間が取れないから、とりあえず書いて送っておいて」と言われたらそうするしかない。ちゃんと添削してくれることを祈りながら…
自己PR欄に必ず盛り込むべき2つの要素
「研究者を志望する動機」などについて記述する最後のページは、いわゆる「自己PR欄」である。
このページが採用にどこまで大きく影響するのかはわからないが、審査員に好印象を持ってもらえることを書いていくに越したことはない。
それぞれの項目を書く上で、必ず盛り込むべき要素が二つある。
①ショートエピソード
ショートエピソードとは、「実際に経験したこと、取り組んできたことを短めのストーリーにしたもの」である。
就活の面接で、「あなたの長所は何ですか?」と質問されたとする。
そのとき、ただ「地道に物事をコツコツ続けていく粘り強さです」とだけ答えるよりも、
「地道に物事をコツコツ続けていく粘り強さです。大学の部活で陸上競技の長距離に取り組んできました。部活の練習に加え、毎朝欠かさず10km走ることを続けてきたおかげで、毎シーズン自己記録を更新できました。」
のような具体的なエピソードがあった方が、相手に与えられる納得感がはるかに大きい。
したがって、研究者を目指す動機や自己の長所を書く上では、自分の書いたことを納得してもらえるようなエピソードも一緒に書くようにしよう。
②社会貢献への強い意志
どんな仕事でも誰かの役に立っている。学術界の研究者でも同じだ。
一方で、大学の研究者の場合、自分の興味にまっすぐ向かっていった結果、研究者になりました、ということが少なからずある。
研究の内容がより学問的なものになればなるほど、「実際に社会にどのように役立つか」という視点をあまり持たずに研究をしている人もいるかもしれない(アインシュタインの相対性理論がGPSに利用されているように、何十年も経って役に立つ点で学術研究にも価値があるのだけれど)。
しかし、そのような前提で、「自分が興味があるから」とだけ書き、「社会に貢献する」という視点が抜け落ちている申請書は、あまり印象が良くないと思う。
何故なら、税金から学振特別研究員へ給料を支払う以上、「少しでも社会へ還元できる可能性が高い人を採用したい」と審査側が考えるからだ。
したがって、自己PR欄では
「自分が研究者として優れている」
ことに加え、
「研究で得たことを社会貢献へつなげたい」
という内容を積極的に盛り込むべきである。
「自分の分野はかなり学問的だから、社会実装できるような応用にはつながらないよ」と感じる場合もあるかもしれない。
そのような場合は、
「積極的な発信を行っていく」
という書き方をするといいと思う。
何も、自分が発見したことが直接実装されるだけが社会貢献ではない。
学問の面白さ、研究の面白さ、そういったものを積極的に発信していくことで、次世代の学生が
「自分も研究者になりたい」
と思って勉強するようになったら、それだけでも大きな社会貢献であると言える。
おわりに
研究計画などの細かい内容については、分野によっても書き方が大きく異なると思われるため、今回は割愛した。
なるべく平易に書いてきたつもりだが、もし「ここがわからない」という場合や、質問がある場合には、コメントしていただければ、なるべくお答えする。
改めて述べるが、学振は「書き方を知っているかどうか」で採用されるかどうかが大きく左右される。
申請書を書く前には入念に調査をし、申請書の作成は時間に余裕を持って取り組むようにすると、採用される可能性を高くすることができる。
(これから申請する予定がある人は、頑張ってください!)
研究室配属の思い出
もくじ
くじ引きで研究室配属が決まる
僕が所属していた専攻では、卒論研究を行う研究室はくじ引き、修論研究の研究室は院試の成績で決まることになっていた。
卒論とはいえ、本格的なテーマで研究をするのが慣例になっている。卒論発表を聞いていると、時々「○○で世界記録更新」や「○○という系で初観測」のような、「世界初」の結果が飛び出してくる。
僕自身、卒論研究で学術誌論文へ投稿できるような研究を行っていた。
アメリカの学会誌に出版された一本目の論文のデータの一部は、学部生時代の卒論研究の過程で得られたものだ。
そういうこともあり、卒論研究での研究室配属決めは、多くの学生にとって一大イベントだ。
4月の前半に、各研究室が学部4年生向けの見学会を企画する。理研など、外部に研究室を持っているところはそちらを公開することもある。
見学会で研究環境を見たり、先生や学生の話を聞いて、それぞれ希望配属先を固める。
そして、4月の下旬にくじ引き大会が行われる。
くじ引き大会では、決められた日時に専攻内の4年生が一つの教室に集められる。
みんな緊張でそわそわしている。
「俺、○○研行こうかな」などと揺さぶりをかけてくる人もいる。心理戦だ。
そして、学科長の合図のもと、それぞれが希望する研究室に名前を書きに行く。
定員より多くの希望者がいるのを見て、そこまで人気が集中していない研究室に名前を書き換える人もいる。
そうした駆け引きを経て、定員より多いところでくじ引きが行われる。
くじ引きでは、箱から数字の書かれたボールを取り出し、より大きい数字(小さい数字)を引いた人が内定を勝ち取る、という簡単なものだ(大きいか小さいかは、学科長の気分で決まる)。
みんなが見ている前でくじ引きをする。みんな相応の気合いで臨むため、結果が出た際には思わず悲鳴や歓声を上げる。
それに合わせて聴衆が一緒に(意味なく)歓声を上げたり、研究室から迎えに来た院生たちや、そもそも全然違う学科の人たちが、一緒になって後ろでワーワー騒いでいる。何の祭りだ。
見る分には楽しいかもしれない。しかし、第一志望への思い入れが強ければ強いほど、当事者にとってこのイベントは胃痛ものである。
第一志望で決めたい切実な理由
さて、くじ引きに通らなかった人たちを対象に、第二志望を宣言する時間が与えられる。
第二志望とは言っても、人気どころの研究室はおろか、ほとんどの研究室で定員が埋まっていることが多い。したがって、志望というよりも、「残った枠の中でどこを選ぶか」という後ろ向きな消去法的選択と言った方がいい。
第一志望に通らなかった人の多くが絶望の表情を浮かべているのは、ただ通らなかったからではない。
柏に行きたくないからである。
学部生が配属される研究室は本郷、駒場(生産研)、柏の葉の3つのキャンパスから成る。
ほとんどが本郷の研究室だが、全体の2~3割程度の学生は柏の葉キャンパスの研究室へ配属となる。
そして、柏の研究室は柏にあるというだけの理由で恐ろしく人気がない。見学会で先生方や学生がいくら研究の面白さや、研究環境の良さをアピールしても、学生は柏へ行きたくないのだ。
誤解を防ぐために付け加えると、何も柏の葉キャンパスが劣悪な環境だからとか、そういう理由で人気がないわけではない。むしろ、研究環境は本郷や駒場より遥かに優れている。
研究所は広々としていて、実験室も居室も広く、振動が少ないから繊細な装置でも使用が可能だ(本郷は都心にあり、地下鉄も多く通っているため、精度が必要な装置は理研で使用されることが多い)。
人も車も多くなく、緑があってのびのびとしている。都心の喧騒から離れて研究に打ち込むには、この上ない環境だ。
何故柏を希望する学生がこれほどまでに少ないのか。実のところ、僕にもよくわからない。
僕自身は、本郷キャンパスの研究室に埼玉の実家から通っている。柏の葉キャンパスだと通学時間が1時間半になり、20分くらい長くなってしまうため、本郷を第一志望としていた。
しかし、後にも書くけれど、柏になったらそれはそれでいいと思っていた。本郷より通うのは大変だけれど、通勤ラッシュの時間帯に1時間40分以上かけて通学した高校時代を思えば大した問題ではない。
一人暮らしなら、家賃など考えると柏の方が住みやすいくらいかもしれない。駅前にショッピングモールがあるし、生活に不自由することはないと思う。
強いて言えば、友達が都内にいる場合、会いに行くのが億劫になる(つくばエクスプレスは交通費が高いのであまり頻繁に使いたくない)。
あとは、都会に慣れてしまうと、人が少ないので寂しいと感じるかもしれない。
さて、そんなこんなで柏の研究室を初めから希望するのはせいぜい2, 3人である。
第一志望の研究室を宣言する(黒板に名前を書く)際、必ずしも全員が「本当の第一志望」を宣言しているわけではない。
何故なら、くじ引きに敗れた場合は高確率で柏へ行くこととなってしまうので、そのようなリスクを取るくらいなら、「すごく人気があって競争率の高い第一志望」より「競争率がそこまでではない第二志望」を選ぶ方がいいと考える人が出てくるからだ。
そのような駆け引きがあるため、本郷の研究室にはほとんど空席ができない。
したがって、本郷(+駒場)の研究室を志望する人から10人強はくじ引きに敗れて柏へ行くこととなる。
くじ引きに敗れた友人が取った、意外な決断
僕自身については、くじ引きに関してそこまで面白いエピソードは特にない。
特に心理戦もせず、第一志望に名前を書き、くじ引きで運よく3分の2を引き当てることができた。
ここからは、とある友人のエピソードを紹介しようと思う。
その友人とは、学部3年次後期に実験ペアだったこともあって仲良くなった。
3年生では、本郷・柏の研究室で実験をする実習がある。
柏での実験を経て、彼は「環境は良さそうだけど、家(神奈川)から遠いし、量子コンピュータに興味があるからさすがにないかな」と言っていた。
量子コンピュータを初めとした、量子情報分野を扱う研究室は本郷・駒場(・理研)に限られる。
学部4年生を受け入れる柏の研究室はいずれも、物性物理分野(主に固体内部で生じる特異な物理現象を研究する)の研究室だ。
4年生になり、くじ引き大会の当日。たまたま講義で会い、そのまま一緒に昼食を摂った。
自然と、研究室配属についての話題になった。
僕は初めから物性物理に興味があったので、彼と希望が被ることはないと思っていた。そのため、特に心理戦とかは気にせず、第一志望を教えた。
加えて、くじ引きに通らなかったら柏になるけれど、その中だったらこの研究室へ行きたい、という話もした。
その研究室は柏に移ったばかりだったが、研究内容及び先生の人柄に惹かれて、そこにしようと考えていた。
毎年、学部4年生向けに、柏の研究室見学ツアーが開催される。当日は午後からの開催だったが、先生方に個人的にアポを取って、午前にお話を伺っていた。第一志望に通らなかった場合を見越して、あらかじめ第二志望をきちんと固めておいた。
そんなわけで「この先生、すごく人柄が良くて、熱心にお話していただけてよかった」という話を友人にしたら、「そうなんだ」というリアクションだった。
そして、友人にどこに出すのか聞いてみると、「やっぱり古澤研かな。でも第二志望は考えてないわ。」とのことだった。
古澤明教授は、光量子コンピュータの世界的権威であり、メディアへの露出や著書などの影響で知名度が高い。古澤研究室には、毎年のように志望が殺到する。
量子情報分野の研究室は3つ(合計で8人程度しか受け入れられない)であるのに対し、この分野を志望する学生は20人近くいると思われる。
くじ引きの前には駆け引きを経て光学の研究室へ志望を変える人も現れるが、それでも量子情報分野の競争率が最も高い。なかでも古澤研は、知名度の意味でもトップクラスに人気がある。
いよいよくじ引き大会。
古澤研は定員4人に対して7人志望となった。そこに、例の友人の名前もあった。
7分の4。決して低い確率ではない。
しかし、勝者がいれば敗者もいる。彼は、古澤研への切符を勝ち取ることができなかった。
彼は、苦笑いを浮かべていた。
くじ引きに敗れた人達の第二ラウンドが始まった。
本郷の研究室はわずかに空席が残っていた。一つは物性、もう一つは光学。
量子情報分野を志望していた人の志望は案の定、光学の研究室の残り人枠に集中した。
物性を志望している人は、観念して柏の研究室を選ぶ人も出てきた。
第二志望を考えていなかった彼も、本郷にある光学の研究室へ志望を出すものと思って、僕は成り行きを見守っていた。
しかし、彼は何を思ったか、僕が第二志望にしようと思っていた研究室に志望を出したのである。
その研究室は柏へ移ってきたばかりであり、装置の立ち上げなど、学生の仕事量が多く大変になることが予想されていた。そのため、柏の研究室の中でも、その研究室は一人しか志望者がいなかった(その人は第一志望で出していたので既に内定していた)。
残っていたもう一つの枠には彼以外に志望者がいなかったため、そのまま内定となった。
量子情報に興味があって物性を選ぶつもりはなく、第二志望も特に考えていなかった彼が、あまり人気のないその研究室を選んだ。
くじ引き大会が終わったあと、どうしてその研究室にしたのか聞いてみた。すると、「わからない。勘、かな」と言っていた。
直感というのは思いの外、認知の歪みに影響されている。
明らかに、僕が昼食時に彼にその先生の話をしたことが影響している。そうとしか思えなかった。
僕個人の意見でしかない話をして、彼自身の選択に干渉してしまったのではないかという後ろめたさを感じた。
いつの間にか楽しくなっていた
前期はまだ講義があったので、時々会うこともあった。
彼は、院試で本郷へ戻るつもりだと言っていた。実際、過去問も解いていた。
しかし結局、彼は柏の院試を受験し、そのまま同じ研究室へ進学した。
一旦柏に配属されると、そこから本郷の院試を受けるのには心理的なハードルが生じる。口述試験のノウハウがなくて不利であるほか、本郷の院試は競争が厳しく、志望した研究室に入れる保証がないからだ。それよりは、ある程度勝手がわかっている今の研究室にとどまった方がいい。そう考える人は少なくない。
彼も、そのように考えて柏に留まることにしたのだろう、僕はそう考えていた。
卒業式、久々に会う機会があった。
研究の具合はどうか聞いてみると、「すごくいい先生だし、研究も面白いし、毎日楽しいよ」と言っていた。
「それはよかった」と返した。
けれど、本音では半信半疑だった。その研究室を(半ば)勧めた(?)自分に気を遣っているのかもしれないと思った。
でも、それ以上余計な詮索はしなかった。
それから半年経って、学科の友人と何人かで飲み会をした。
その際、何気なく例の友人にも声をかけてみたところ、柏からはるばる本郷まで来てくれた。
最近どうかと聞いてみると、彼は開口一番、
「朝から晩まで研究漬けだけど、こんなに楽しくなるとは思わなかった。リーディングも通ったから博士まで行くよ」
と言った。
リーディングというのは、博士課程進学を確約することで、修士1年の秋から毎月20万円の奨学金をもらえる大学の教育プログラムである。修士卒で就職する道を絶つ代わりに、他の学生と比べて金銭面で大きな恩恵を享受できる。
M1春の段階で、少しでも修士卒就職を考えている人はリーディングは出さない。僕も出さなかった。
もともと量子コンピュータの研究をしたいと語っていた彼が、あろうことか全く異なる分野で博士号を取りに行く道を選んだのである。
彼の「研究が楽しい」という言葉は本物だった。
「もう、量子コンピュータに興味はないの?」質問せずにはいられなかった。
「そうだね。今やっていることが面白いから、量子情報にはもう興味なくなっちゃったんだよね。」
思いもよらなかったことにハマることもある
彼のように、もともと興味のなかった分野で、研究を始めてみたらいつの間にかハマってしまったという人もいれば、
一方で、激戦を勝ち上がって第一志望へ進学したにも関わらず、「思っていたのと違う」と感じて研究に打ち込めない人もある。
研究を始めてみないとわからないことも多い。だから、よく後輩たちには、
「この研究室に入れなかったらどうしよう、なんて考える必要はない」
「第一志望に通ればそれで幸せ、とは限らない」
という話をする。上記のエピソードを話しつつ。
何が楽しいかわからないなら、何を基準に決めればいいのだ、
と思われるかもしれない。
それは純粋に、「面白そう」と思ったところを選べばいいと思う。
ただ、その後、自分の希望通りになろうとなかろうと、研究を楽しめるかどうかは本人の心持ち次第で決まる。
第一志望に入れたからといって、「面白いものは周りの環境が与えてくれる」と考えて「待ち」に徹するのではなく、
希望通りの場所に入れなかったからと言って、「周りの環境のせいで、面白くない」と考えて「待ち」に徹するのではなく、
「いま置かれた環境で、最大限面白いと思えることをやる方法は何だろう?」と前向きに、主体的に考える姿勢が大切なのだと思う。
まあ、僕のように、たまたま第一志望を引き続けた人間が言っても説得力はないのだけれど。。。
大学院入試のサバイバル
はじめに
「東大卒プロゲーマー 論理は結局、情熱にかなわない」(ときど 著、PHP新書)を読んだ。
著者の「ときど」さん(本名は谷口 一さん)は、東大工学部マテリアル工学科を卒業、同大学院修士課程を中退し、格闘ゲームのプロとして活躍している異色の「東大卒プロゲーマー」である。
「ときど」さんがプロゲーマーになった当時は、プロゲーマーという職業がほとんど存在していなかった。
この著書では、「どうして、どのような経緯でプロゲーマーになったのか」という視点から、「ときど」さんの半生がつづられている。
著書の要旨は、副題にもあるように、「論理は最終的には情熱にかなわない」ということだと思う。
勝つために徹底的に合理的な手法を取り続けてきた「ときど」さんは、やがて「合理の壁」にぶつかる。
そして、純粋に「楽しい」と思えること、「勝つ」という結果に至るプロセスを楽しむ情熱こそが、さらに強くなるために最も大切なことだと気付いた。
この著書では、そういったことを主張されているのだと感じた。
院試制度に研究の道を絶たれる
さて、ここからが本題。
博士課程の学生である僕にとって、著書のなかで最も印象に残ったのは「大学院入試での挫折」というところである。
これがなければ、「ときど」さんは研究者になったかもしれないからだ。
「ときど」さんは、学部4年で配属された研究室のポスドク研究員に感化され、情熱的に研究に取り組んだ。
それまで、浪人中でさえも続けてきたゲームを一切やめ、朝から晩まで研究に打ち込んだ。
情熱は実を結び、ゼミで発表した内容で国際学会でも賞を受賞し、成果はのちに論文となってまとめられた。そのうち一本はNature姉妹誌に掲載された。
学部時代の研究成果でこれだけの実績を挙げるのは尋常ではない。順当に歩めば、「ときど」さんはアカデミアで活躍していた可能性もあっただろうし、本人もそのような将来を少なからず考えていたはずだ。
ところが、現実はいつもうまくいくものではない。
「ときど」さんは大学院入試での競争に敗れ、学部時代に所属していた研究室に残ることはできなかった。
新たに配属された研究室では、研究内容にどうしても関心が持てず、院に入ってからも修士研究そっちのけで学部時代の研究に取り組んでいた。
結局、院を中退し、一時は公務員を目指したが、最終的には「理屈」よりも「情熱」を優先し、プロゲーマーとして個人で生きていく道を選んだ。
大学院入試の理不尽なところ
院試は競争である以上、恨みごとを言っても始まらないのかもしれない。
しかし、「ときど」さんが感じた大学院入試制度の理不尽さに、毎年それなりに多くの学生が翻弄されていることも事実である。
ここで言う、大学院入試制度における理不尽な点とは、合否判定そのものというよりも、その後に決まる研究室配属のしくみである。
院試では、各専攻ごとに定員が決まっていて、まずはその人数に合わせて合格者を決める。その後、院試の成績と受験者の希望配属先(願書に書く)に合わせて配属先が決まる。
「ときど」さんが直面した理不尽さは次の二つである。
- ペーパーテストの得点で配属が決まること
- 配属の繰り上げがないこと
ペーパーテストの得点で配属が決まる
院試では、1次試験としてペーパーテスト、2次試験として面接を課すことが多い。
しかし、実質的にはペーパーテストでほとんど結果が決まっていて、面接では進学の意志を確認する程度のものだと言われている(本当のことはわからない。専攻によっては口述試験を重視している場合もあるので、院試を受ける人はきちんと情報を集めてから受験した方がいいと思う)。
つまり、ペーパーテストでいい点数を取れた人が、希望通りの研究室へ配属されることになる。
人気の研究室でも配属できる学生数は2, 3人である。研究室によってはここに20人以上の希望が押し寄せることもあり、その中で勝ち上がった数人だけがその研究室で研究できる。
この過程では、「研究遂行能力」は一切考慮されない。
僕が考える研究遂行能力には、
- 研究テーマの本質をつかんで重要なところに注力する能力
- みずから課題を発見し、主体的に解決に取り組む能力
- 計画的に研究を進めていく能力
- 粘り強く研究に取り組む能力
- 上司や同僚と積極的に議論し、課題解決方法を素早く見つける能力
などが含まれる。これらはいずれも、決められた時間内に試験問題を解かせるだけで測れるとは到底思えない。
学部生の段階で研究の能力を測ることは難しいかもしれない。しかし、「ときど」さんのような素晴らしい研究成果を挙げている人であっても、研究能力に対する加点が一切ない現行システムはいかがなものか。
配属に空席ができても繰り上がらない
院試のもう一つの理不尽な点が、「配属には繰り上げが存在しない」ということだ。
院試は、複数の研究科、複数の大学院を併願することが可能である。例えば、僕がいま所属している理学系研究科は、僕が修士号を取った工学系研究科とは試験日程が重なっていない 。
「ときど」さんが望んだ研究室に合格した二人のうち、一人は東大の合格を蹴って京大の院へ進学した。こういう人も珍しいわけではない。
その際、その研究室に空いた人枠は空席となる。補欠という制度はないから、「ときど」さんがその空いた枠に繰り上がるということはなかった。
僕自身も修士時代、研究室に同期がいなかった。
もう一人、理学部の学生が合格していたが、その人は理学系へ進学した。
学部時代の研究室同期は第二希望の研究室へ配属された。
「空席があるのにそこへ上がらせてもらえない」という事実に、何とも言えない後味の悪さが残った。
制度がそう簡単に変わらない理由
現行の制度に疑問は持っているが、これらの制度を変えることは簡単ではないのかもしれない。
ペーパーテストで評価するというのは、大学入試と同様、きわめて客観的で平等な選抜方法である。
ペーパーテストの能力がある程度「優秀さ」を反映するとする考え方もある(僕は懐疑的だけど。少なくとも研究については)。
理論の研究室などでは、そういった能力がものを言うのかもしれない。
また、繰り上げを認めてしまうと、配属を改めてやり直さないといけなくなるという問題がある。
先ほど話に出た、僕の同期が繰り上がることができたとしよう。
すると、彼が配属されるはずだった研究室に空席ができ、そこを志望していたのに行けなかった人がまた繰り上がる。
これを繰り返していくと、結局配属を初めから組み直さないといけなくなる。
手続き上どれくらい大変なことなのかはわからないけれど、これ以外に繰り上げを認めない理由が思いつかない。
僕が修士時代に所属していた物理工学専攻では、合格を蹴る人が大量に現れ、制度の変更が行われた。
しかしそれは「繰り上げの認定」ではなく、単なる「合格者数の増加」というものだった。
僕が修士の院試を受けた年、58人合格者のうち進学したのは39人だった。なんと、3分の1の人が合格を蹴ったのである。
さらには内部受験者(工学部物理工学科)のうち、2割もの人が不合格となった。
蹴った人のほとんどは理学系研究科物理学専攻(僕がいま所属しているところ)へ進学したと思われる。彼らは理学部物理学科の学生で、そちらを第一志望として受験していたのだ。
その翌年も、同じようなことが起こった。特に理論系の研究室を中心に空席が多発し、教授たちもいよいよ我慢の限界になった。さらに次の年は、合格者数を従来より20人増やしたところ、ちょうど定員と同じくらいの進学者に収まったということである。
しかし、この制度の変更では、「研究室に空席が出る」という問題は解決しない。
何かいい方法はないか?
これらの制度に対して、僕なりの代替案を考えてみた。
ペーパーテストの結果で配属が決まる制度への代替案
僕はペーパーテストをなくしてほしいと思っているわけではない。
記念受験みたいな人も結構いるので、ペーパーテストで先に合否を分けてしまうことについては賛成だ。
これに加えて、研究室配属を決めるために次のようなやり方を取ることを提案する。
申請書を提出させる
出願の段階で、軽めの学振の申請書のようなものを提出してもらう。
具体的には、配属された研究室で取り組む卒業研究について、研究計画や予想されるインパクトについてA4用紙2枚くらいで記述してもらう。
自己PRも1枚くらい書いてもらうといいかもしれない。
これによって、研究にどの程度見通しを持って主体的に取り組んでいるか評価する。
リーディング大学院などもこのような形で選抜を行っているのだから、そこまで無理のあるものでもないだろう。
このやり方の問題点は、申請書を審査するのに時間がかかること、その気になれば本人以外が書くこともできてしまう(例えば、後輩を進学させようと先輩学生が代わりに書いてしまう)、などがあげられる。
口述試験で卒論テーマについて発表してもらう
申請書ではなく、直接プレゼンしてもらい、教授たちがこれを評価する。
物理工学専攻ではこのやり方を取っていて、画期的だと思う。
問題点は、審査する教授の仕事が増えることだ。
また、発表のイメージがつきにくい外部受験生にとっては不利に働きやすい(もともと院試なんていうものは内部生が有利なのだけど)。
冬に口述試験を行い、卒業論文について発表してもらう
上記の2つのやり方では研究計画に対する評価を重視するものだった。
一方で、よりシビアに研究遂行能力を評価する方法として、卒業論文の審査を口述試験とするやり方が考えられる。
実際、修士から博士へ上がる場合の試験は、修論審査を博士の進学試験としているところがほとんどであると思う。
このやり方の問題点は、外部から受験する人が卒論審査を二回やらないといけなくなることだ(自分の大学で学位を取るための審査と、院試の口述試験としての審査)。配属の決定に時間がかかるので、併願している学生は併願先に迷惑がかかるということもある。
配属の繰り上げがないことへの代替案
こちらについては本当になんとかしてほしいと思っている。
併願している人が含まれる場合、多めに配属させる
配属人数が2人であれば、その二人のうち片方でも併願者がいれば3人合格させる。もしその人が蹴れば2人になるし、3人でもなんとか指導できるはずだ(実際、成績上位一割の人は3人配属できるというルールで3人配属されるケースはある。また、配属先の教員が研究室ごと他大学へ異動になると、好きな研究室へ配属先を選べるというルールがあり、これによって3人配属となるケースもある)。
したがって、蹴られそうなら多めに取っておき、蹴られなかったらそれはそれでOKとするというやり方が成立する。
ちなみに、物理工学専攻は去年このやり方を取って、それなりにうまくまとまったと聞いている。今年はどうなったか知らない。
併願者の進学の意志を確認してから配属を確定する
上記のやり方で問題ないケースもあるが、
「3人とも蹴ってしまった」
「3人の研究室が増えすぎてしまう」
という問題も起こりうる。
そこで、もっと根本的な方法としては、「仮配属先」というやり方をとるものである。
まず、今まで通り合格者に配属先を割り振り、本人に伝える。ただし、これはあくまで仮のものである。
つぎに、併願者の意志を確認する。
他と併願している人に進学先を書類か何かで提出してもらう(もちろん、併願先にも)。
その書類で、合格を蹴る人が明らかになる。これを元に、配属先を再度組み直す。
そして、最後に確定した配属先を改めて進学希望者に伝える。
このやり方の問題点は、手続きが面倒になることだ。
しかし、これで熱意をもって研究に取り組む学生が一人でも多くなり、日本の学術界にプラスの影響があるのだから、どうか職員の方には頑張って対応していただきたい。
おわりに
いろいろ書いてきたけれど、正直、実際に制度が変わることにはあまり期待していない。
これから院試を受けることになる人が、自分の進路について少しでも考えるきっかけになればうれしい。
オンライン学会は画期的
今週、4日間にわたって、応用物理学会の秋季学術講演会が開催された。
全ての発表はZoomを利用して行われた。
社会情勢を鑑み、やむを得ずオンライン学会になったわけだが、
いざ参加してみて、
「とても画期的」
だと感じた。
もはや、
学会は今後もずっとオンラインでよいのではないか
とさえ思ってしまったほどだ。
もくじ
オンライン学会の形式
今回僕が参加した応用物理学会は、以下のような形で行われた。
- 口頭発表のみ(ポスター発表なし)
- Zoomウェビナーを利用
- 発表者のPC画面を共有
- 発表者のカメラ映像が共有画面の上に小さく表示(カメラをオフにすることもできる)
- 質問はチャットに書き込まれたものを座長が読み上げる
大学のオンライン授業と大体同じようなものである。
オンライン学会の画期的な点
オンライン学会は、「好きなときに」「どこからでも」聴講することが可能である。
したがって、従来のオンサイト型学会と比較して、極めて生産性が高いと言える。
具体的には、次のような利点がある。
- より多くの学生が参加できる
- 忙しい教授や助教も参加しやすい
- 発表の合間を無駄にすることがなくなる
- 口頭発表の準備が楽になる(英語講演の場合)
より多くの学生が参加できる
本来、学会に参加するためには開催地へ移動し、場合によっては会場の近くに宿泊する必要がある。
そして、それには当然お金がかかる。
そのお金は出張費として研究室から拠出される(学振特別研究員は自分の科研費を使える)。
したがって、学会に参加したいなら、何かしら発表をする必要がある。
ところが、みんながみんな学会で発表できるだけの成果を出せているとは限らない。
そのため、学会に参加したくてもできないという学生がいるはずだ。
そうした学生も、オンライン学会なら参加できる。
オンラインなので出張費は一切かからない。
応用物理学会に至っては、聴講のみなら学生は参加費無料だったので、文字通り一銭もかけずに発表を聞くことができる。
したがって、従来の学会より多くの学生が参加できる。
忙しい教授や助教も参加しやすい
日々の業務に忙殺されている教授や助教も参加しやすい。
従来、学会に参加するために新幹線や飛行機で移動して、場合によっては前泊して、といった手間をかけてまで学会に参加するのは大変だ。
招待講演をするために遠距離移動して、でも次の日は別の用事があるからその日中に帰る、というようなこともある。
しかし、オンラインなら家からでも講演ができ、発表もピンポイントで気になるものだけ聴くことが可能だ。
したがって、忙しくてなかなか学会に参加できずにいた教授や助教にとっても、オンライン学会なら気軽に参加できる。
実際、こうした利点によって、今年の応用物理学会秋季学術講演会では、秋季としては史上最高となる8000人以上の参加があったようだ。
発表の合間を無駄にすることがなくなる
さらには、発表の合間の時間を無駄にすることがなくなるという利点がある。
口頭発表は普通、1人15分単位で連続して行われる。
その際、例えば、
「今聴いている講演の30分後に聴きたい講演がある」
「間にある2つの発表はあまり面白くなさそう」
というような場合は、
- ぼんやりとそれらの発表を聞く
- 内職をする
- 部屋から出て、広間などで作業をする
といった対応が考えられる。
当然、ぼんやりと聞いているだけでは時間の無駄だ。
かといって、堂々と内職するのも気が引ける。
作業するのにいちいち移動するのも面倒である。
ところが、オンライン学会であれば家や職場から聴いているのだから、何ら困ることはない。
さっさと画面を閉じて作業に移り、次に聴きたいときにまた戻ってくればいいだけだ。
したがって、学会を漫然と聞くことがなくなり、あらかじめ聴くと決めておいた発表以外の時間はいつも通りに仕事ができる。
なんなら、発表の合間に実験をすることもできるかもしれない。
あるいは、同じ日程で開催されている別の学会を聴くこともできる(日本物理学会は同日程だった)。これもオンラインならでは、である。
口頭発表の準備が楽になる(英語講演の場合)
口頭発表ではスライドを作るだけでなく、実際に発表するための練習をしなければならない。
原稿を覚えてすらすら話せるようになるまで何度も反復する必要がある。
(日本語発表なら原稿なしでも問題ないかもしれない)
原稿を見てはいけないというルールはないが、あまりにも堂々と原稿を見ているとみっともないし、興ざめだ。
実際に、原稿を確認しながら発表している人もいるものの、そうした発表はたどたどしくなるため、聴衆がすぐに興味を失う。
賞を狙うなら、プレゼンの技術に加え、聴衆を惹きつける発表をする必要がある。すらすら話せることは大前提だ。
一方、オンラインであればその必要はなくなる。
原稿を見ながら発表していても何ら差支えない。練習は原稿を数回音読しておくだけでよくなる。
人にもよるが、この「原稿を覚える」という作業がなくなるだけでかなりの時間と労力の節約になる。
オンサイト学会にあってオンライン学会にないもの
このように、オンライン学会は画期的なものである一方で、現地開催の学会にも価値がある。僕の考えられる範囲では、
- ポスター発表での議論
- 同じ分野の研究者とのコネクションづくり
- 日本や海外の様々な地域に行ける
というようなものがあげられる。
ポスター発表での議論
今回行われたオンライン学会にはポスター発表がなかった。
口頭講演だと質疑応答の時間は短く、オンラインだと発表後個人的に質問しに行くことができない。
一方で、ポスター発表ではある程度時間を気にせずディスカッションができる。
データを見せながら議論できるので生産性も高い。
「口頭講演するほどではないけれど、学会には出してもいいと思える結果がある」
「口頭講演の準備が面倒」
といった場合にポスター発表をチョイスする人がいる(修士課程の人に多い)。
そうした人は質問への受け答えもマニュアル的だ。
「聞かれたことに答えるだけ」というスタンスで、つつがなく発表を終わらせてしまいたい、という意識が垣間見える。
しかし本来、ポスター発表は
「まだ不完全だけれど発表して、いろいろな人の見解を伺いたい」
というようなモチベーションで行われるものだと思う。
実際、意欲的な学生やアカデミアに腰を据えている人に質問すると、答えに加えて「実はここはわかっていない」「こういう風に考えている」「こういうところは面白いのではないか」というような話をしてくれる。
そこからさらに質問したり、こちらの見解を述べたりすると議論が深まって面白い。
自分の意見が相手の研究を進めるきっかけになることがあるし、こちらもそうした議論から新しく研究テーマを見つけられるというようなこともある。
これは、オンライン学会にはない利点だと思う。
同じ分野の研究者とのコネクションづくり
アカデミアに進みたいと考えている学生にとっては、学会でコネクションを作るというのは非常に重要となる。
各大学の教授クラスの人たちにも顔を売り、実績をアピールしておくことで、後々ポスドクとして受け入れてもらえたり、助教として呼んでもらえることがある。
いわばアカデミアにおける「就活」である。
特に、日本の大学院で博士号を取ったあと、海外学振を利用して海外でポスドクとして研究したいと考えている人にとっては、国際学会でいかに海外の先生方と仲良くなっておくかが重要となる。
おそらく、今年開催される国際学会はすべてオンラインとなったはずだ。
これから海外へ出て研究しようと思っている人にとってはかなりの向かい風である。
また、そうした学生のみならず、既にアカデミアに所属している人にも学会でのコネクションづくりは重要となる。
仲良くなることで共同研究へ発展し、そこから新たな発見や研究の進展が生まれうるからだ。
日本や世界の様々な地域へ行ける
「遠距離移動しなくていい」
「宿泊しなくていい」
といったオンライン学会のメリットは、同時にデメリットとなりうる。
学会開催地へ行くことは一種の旅行のようなものであり、それをモチベーションに学会へ参加する研究者も少なからずいるからだ。
もちろん、出張費の財源は元をたどれば税金である以上、ただ旅行のように楽しむ(たとえば発表を聞かないであちこち遊びまわる)ようなことはあってはならない。
学会に積極的に参加するのは当然の義務だ。
しかし、学会のプログラムが終わった夕方以降、ご当地の美味しい食事を味わったり、近場に出かけることはできる。
去年秋の応用物理学会は北海道大学の札幌キャンパスで行われた。札幌には美味しい食べ物がたくさんある。僕は現地でスープカレーを3回食べたのに加え、ジンギスカン、札幌ラーメンといったご当地グルメを堪能した(海鮮が好きだったらもっと楽しめたと思う)。
同じようなことを考えていた人は結構いたらしく、発表者数は秋季としては史上最高、教室には人が入りきらず立ち見している人もいた。
みんな札幌に行きたかったのだ。
国際学会であれば、日頃は飛行機代が高くてなかなか行けない海外へ行くこともできる。
国際学会は国内学会よりも査読のハードルが高いことが多いものの、海外へ行けることをモチベーションにして研究を頑張れるという側面もある。
まとめ:結局どっちがいいのか
オンライン、オンサイトそれぞれの良さを書いてきた。
社会情勢が落ち着いたら、またすべての学会をもとのオンサイト形式に戻そうということになると思う。
しかし、オンライン学会には、社会情勢とは無関係に大きな利点がある。
だから、僕としてはオンライン学会も続いてほしいと思う。具体的には、
オンラインの回とオンサイトの回をつくる
というハイブリット型になってくれるとうれしい。
もしかしたら、オンサイトでなければならない事情があるのかもしれないけれど。。。
研究と競技を両立するための3つの鉄則【その3】タスクは可能な限り前倒しして終わらせる
↓ はじめにお読みください
- この記事で言いたいこと
- スポーツで結果を出すのに最も大切なこと
- 院生が競技からフェードアウトしてしまうまでの流れ
- 人はやるべきことを先延ばしにしてしまう
- 終わらせるのに必要な仕事量の見通しは甘くなりやすい
- どうすれば先延ばしにせずにすむか
- タスクを前倒しで終わらせる
- 最後に:僕が研究室の先輩から学んだこと
この記事で言いたいこと
ここでは、
「タスクを終わらせるのに必要な仕事量の見積もりは甘くなりやすい」
「タスクには可能な限り早く取りかかり、できるだけ前倒しで終わらせるべきだ」
という話をする。
スポーツで結果を出すのに最も大切なこと
陸上競技において、あるいは他のスポーツの多くにおいて、結果を出すのに最も大切なことは何だろうか。
「結果を出す」という表現は曖昧だが、ひとまずそこには目を瞑って考えてみてほしい。
いろいろな意見があると思うが、僕は「長期にわたって継続した取り組み」が最も重要だと考えている。
幼少期から人並み外れた努力を継続して偉業を成し遂げたアスリートたちの例は枚挙にいとまがない。メジャーリーグで活躍したイチロー選手は、小学校時代の手記で「365日中360日以上は野球の練習をしている」と書いていたそうだ。
世界のトップを目指すというわけでなく、自己ベスト更新という身の丈に合った(?)目標を達成するうえでも、長期的に継続していくことは重要となる。
陸上の長距離では、故障によって数週間、数か月にわたって走ることができなくなると、そのブランクを取り戻すには倍以上の時間がかかることが多い。
逆に、コツコツと練習を長期にわたって続け、故障しないようケアや食生活、睡眠を大事にしていれば、特別なことをしなくても実力は少しずつ伸びていく。
僕自身、院生になってからの2年強の間、1週間以上走れないような故障はなく、練習が長期にわたって途切れることがなかった。ポイント練習が週1回やそれ以下になることはあっても、10km前後のジョグは必ず続けていた。
また、研究で徹夜することも、睡眠不足の日が何週間も続くようなこともなかった。7~8時間の睡眠は確保していた。
その結果、研究で忙しい中でも自己ベストを更新することができた。
学部生時代でも、自己ベストが大きく伸びたときは必ず、それまでに質の良い練習を3~4か月以上継続できていて、ケアや睡眠など生活もきちんとしていた。
しかし、故障で数か月以上走れなくなることも毎年のようにあって、復帰までの道のりはいつも険しく厳しかった。
院生が競技からフェードアウトしてしまうまでの流れ
もし院生になってから故障していたら、いま僕は競技をやめてしまっているかもしれない。
何故なら、一度ブランクができてしまうと、それを取り返すのは精神的にかなりしんどいからだ。
学部生のときは、それでも時間があったために、頑張ってリハビリトレーニングもしたし、気持ちが疲れたらゆっくり休むこともできた。
しかし、院生になってしまうと、常に研究へ脳のリソースを割かなければならない。
そのため、いつ故障が再発するともしれない恐怖と闘いながら、徐々に復帰していくだけの活力を保つのは容易ではない。
院生が競技をやめてしまうのは、上記のような「一度ブランクができてしまってからそのままフェードアウトしてしまう」パターンであることが多い。
院生は年に何度か、「極めて忙しい時期」を乗り越えなければならない。具体的には、
- 学会予稿締め切りの直前期
- 学会発表の直前期
- 学位論文締め切りの直前期
などがある。
こうした時期は、普段よりもはるかに忙しくなるために、陸上の練習や睡眠はおろそかになりやすい。すると、故障しているわけでもないのに、「数週間走っていない」かつ「寝不足で疲労困憊」な状態が出来上がる。
ブランクができてしまったので、走って体力を戻そうとする。しかし、体力は当然のように落ちているので、取り戻すまでの道のりを果てしなく感じてしまう。「極めて忙しい時期」を乗り越えたからと言って、暇になったというわけでもない。したがって、どうしても走るのが億劫になってしまう。
そうしていると、競技への復帰がどんどん難しくなっていってしまう。そうやって、いつの間にかフェードアウトしてしまうのである。
人はやるべきことを先延ばしにしてしまう
したがって、競技に継続的に取り組むためには、この「極めて忙しい時期」によってブランクを作らないことが肝要になる。
とは言っても、「極めて忙しい時期」だけ生産性をいつもの5倍にする、などというようなことは難しい。したがって、「極めて忙しい時期」に忙しさを集中させず、忙しさを分散させて物事を計画的に進めていく必要がある。
しかし、それは容易なことではない。
何故なら、僕らは誰しも、締め切りぎりぎりにならないとスイッチが入らない「ぎりぎり症候群」あるいは「先延ばし症候群」を抱えているからだ。
ティム・アーバンはTEDトーク「先延ばし魔の頭の中はどうなっているか」で、人がどのように物事を先延ばしにするのか、ユーモアたっぷりに説明している。
「先延ばし症候群」は、人類が理性的な存在でありながら、同時に動物としての本能も持ち合わせていることに由来する。
物事を先延ばしにするのは非合理的だが、「いまが一番大事」とする動物的本能に負けてそうしてしまうのだ。
終わらせるのに必要な仕事量の見通しは甘くなりやすい
先延ばしにしてしまうのは、「今が一番大事」な動物的本能のためであると説明した。
そして、締め切りが近づくと、ティム・アーバンのプレゼンに登場した「パニック・モンスター」が現れる。恐れをなしてサル(=動物的本能を象徴)は身を隠し、脳の舵を人(=理性の象徴)が取れるようになる。こうしてようやく物事に取り掛かる。
パニック・モンスターが現れるのは、「やばい!」と感じたときである。そして、僕の考えでは、そのように「やばい!」と感じるのは「物事に取り掛かって少し経ったとき」である。
締め切りが近づくと、心のどこかで「そろそろ取り掛からないと…」という気持ちが膨れ上がっていく。それが臨界点を超えると、「やばいかも」と感じて、とりあえず取り組み始める。
学会予稿なら数行、学位論文なら1,2ページ書いたくらいのところで、これまで漠然としていた「終わらせるのに必要な作業量」が、はっきりとした輪郭を持って見え始める。
何故なら、少しでも終わらせると、「これくらいの量を終わらせるのにこれくらいの時間がかかるから、全部を終わらせるにはこれくらいの時間がかかる」と、具体的に必要な工程を計算できるようになるからだ。
この状態になって事態の深刻さに初めて気がつき、「やばい!!!」と感じてパニック・モンスターがパニックを起こし、サルが一目散に逃げ出す。
つまり、物事を先延ばしにしてしまうのは、
物事に取り掛かる前の段階では、それを全部終わらせるのに必要な作業量を正確に見積もるのが困難で、たいていの場合はそれを甘く見積もってしまうからだ。
どうすれば先延ばしにせずにすむか
原因さえわかれば対処は可能だ。
物事に取り掛かる前には見積もりが甘くなってしまうのだから、物事に取り掛かるのを可能な限り早くすればいいのだ。
締め切りがわかったら、その段階で少しでもいいから書いてみる。必ずしも一気に全部終わらせなければならない必要はない。
人の脳は不思議で、僕らが意識していなくとも無意識下で様々な情報を処理している。少しでも取り掛かった物事については、無意識の間に脳がその続きをどのように進めるか考えてくれている。すると、また次に取り組むときには、思いの外スムーズに進むようになる。
しかし、締め切り間際に一気に終わらせようとすると、そのメカニズムはうまく機能しない。脳が情報を処理するのには時間が必要だからだ。
タスクを前倒しで終わらせる
このようにして、なるべく早く着手することを習慣にすると、研究の生産性がぐっと上がる。
何故なら、「何となく過ごす時間」が激減するからだ。
少しだけでも取り組んでおくと、いつでも再開できる状況になる。
そうすると、気軽に取り掛かれるから、ちょっとした隙間時間があれば、「2ページだけ書き進めよう」「あの課題を終わらせよう」というような形で有効活用できる。
ゲームで例えるなら、「はじめから」でスタートするときはキャラの設定やら初めのポケモンをどれにするやらで時間がかかるが、「つづきから」で始めるときにはすぐにスタートできるから時間がかからない。ちょっとした時間に「ポケモンのレベル上げしておこう」「トレーナー何人か倒しておこう」とコツコツ進められる。
この積み重ねは想像以上に大きくなる。これを繰り返していくと、だんだん物事を締め切りよりはるか前に終わらせることができるようになる。隙間時間をコツコツと積み立て投資していくことで、時間という資産が少しずつ積み上がっていくようなものだ。
そうなると、「極めて忙しい時期」も同じリズムで生活できる。もちろん、多少締め切りぎりぎりになることがあっても、終わらせるために練習時間や睡眠時間を削って作業時間を捻出しなければならないようなことはなくなってくる。
最後に:僕が研究室の先輩から学んだこと
僕は昔から、どちらかと言えば計画的なタイプだった。夏休みの宿題は遅くとも学校が始まる1週間前には終わらせていたし、高校の林間学校の山登りでは下山するまで飲み水を残していた(そのようにしていたのは僕と僕の友達一人だけだった。その友達は講1から大学受験を意識して勉強しているような人で、成績は学年トップ、あっさり東大東大現役合格を果たしていた)。
それでも、研究というのは僕にとって全く未知なものだっただけに、卒業論文では締め切りに追われた。卒論提出の3日前に実験がようやく終わって、そこから一気に書き上げた。提出は月曜だったが、直前の土日に先輩に来てもらって、「書きながら添削してもらう」という非常識で何とか終わらせた(先輩には本当に頭が上がらない)。
あらかじめ12月からコツコツと書き進めていたが、それでもかなりギリギリになってしまった。
この経験を経て、「もっと長期的見通しを持って、時間を有効活用しよう」と思った。
研究室で僕の面倒を見てくれた、当時博士課程学生の先輩たちから学んだことがある。「やるべきことは、時間に余裕があるうちになるべく早く終わらせよう」ということだ。この記事で説明してきたことである。
研究室1期生の先輩たちは、もともと締め切り前に追い込むタイプだった。ミーティングのスライドは前日の夜中や当日の朝にアップしていた。博士論文を書き上げるというのは相当に大変な仕事であるから、その先輩たちは本当に大変そうだった。
一方で、2期生の先輩たちは、前々から余裕を持って物事を終わらせていくタイプだった。ミーティングのスライドは3日前くらいには出来上がっていて、細かいところを直してアップしたらあとはいつもより早く帰っているくらいだった。論文輪読会などは、発表日程が決まったらすぐにスライドを作り始めていた。予備審査の直前期も国際学会へ参加し、仕事を持ち込まずに学会に専念していた。博士論文も早めに書き終えて、本審査直前もバタバタしている様子はなかった。
先輩たちはみんな、すさまじい実績を残して卒業していったが、その結果に至るまでの過程は異なっていた。そして、研究と競技を両立したい僕にとっては、2期生の先輩たちのようなやり方を徹底的に真似して自分のものにしようと思った。
学会発表のスライドは遅くとも1か月前には作り始めた。ミーティングのスライドは2週間前、論文も書ける段階になったら少しでも早く書き進めた(インターン中も終業後の時間で少しずつ執筆作業を進めた)。修士論文はM2の6月に書き始めた(締め切りは1月下旬)。それでも、提出締め切り当日の朝に少し作業してから昼に出すくらいだったので、見通しは少し甘かったかもしれない。
M2の6月には、9月や11月の学会発表に使うスライドも作り始めていたので、居室にたまたま来ていた教授に「もう学会のスライド作っているんですか!前代未聞だ!」と褒め(?)られた。裏を返せば、「余裕があるときに遠い先のことを少しでも進める」というやり方は、そこまで浸透していないのかもしれない。
生産性を上げるためには、時間を常に有効活用する意識を持とう。
そのために、少しでも早く物事に取り掛かろう。
研究と競技を両立するための3つの鉄則【その2】論文は必要に迫られてから読む
↓はじめにお読みください
この記事で言いたいこと
ここでは、
「論文は必要に迫られてから読む」
「論文は必ずしも全部読まないで、必要に応じて情報を拾っていく」
という話をする。
生産性を上げるためには、論文を効率良く読むべき
院生の研究における主な業務をリストアップしてみると
- 実験
- 勉強・調査(論文や教科書を読む)
- 資料作成(スライド・報告書作成)
- メール返信
- ミーティング(出席、発表)
- 論文輪読会
- 論文執筆(学位論文含む)
ということになる。
研究に投入する時間を抑えるにあたって、これらの業務のうちどれを減らしていくかを考える必要がある。
まず、実験については、作業量を減らすことは難しい。ある程度試行錯誤しないと思うような結果は出ないし、結果が出るかは運にも左右される。作業時間を効率化する努力は必要だが、あまり焦って作業すると、かえって遠回りになることもある(僕は焦って実験したせいで装置に不具合を生じさせてしまい、時間をロスしたことがある)。
資料作成やメール返信といったデスクワークについては、単純に処理速度を上げることが考えられる。ブラインドタイピングを習得すれば文章はかなり速く書けるようになるし、メールについては定型文をユーザー辞書登録すれば素早く書けるようになる。
それから、ミーティングや論文輪読会については、研究室として時間が決められているものなので、削ることは難しい。発表するとなれば準備の時間も必要だが、これも処理速度を上げるくらいしか削る手段がない。
論文執筆についても、学位論文は分量が多いので、シンプルに書くスピードをあげることが一番良い方法だ。
したがって、生産性を上げるために抑えるべき時間は、勉強・調査にかける時間、もっと言えば論文を読む時間なのである。
論文を読む時間を抑えるシンプルな方法
さて、いきなり結論から入ろう。論文を読む時間を抑える方法、それは
「論文は必要に迫られてから一気に読む」
というものだ。
論文を読むという作業は、大変な集中力を要する。ぼーっと読んでいたらいつの間にかウトウト…なんてことも起きかねない。
一方で、必要に迫られてから論文を読むと、脳の情報吸収スピードは普段の何倍にもなる。私たちの脳は、必要だと感じた情報や知識はどんどん習得できるようになっている(その逆もまたしかり)。
外国の空港で物乞いをする子供たちが自然と何か国語も身に着けるのは、彼らが生きていくためにはあらゆる言語で旅行客に物乞いをする必要があるからだ。一方、英語を話さなくても何不自由なく生きていける日本人は、いくら頑張って英会話学校へ通っても、英語が流暢に話せるようには時間がかかる。
なお、必要に迫られてから一気に学習することについては、「なぜ、あなたの仕事は終わらないのか」(中島聡著、文響社)の中で「飛行機を崖から飛び降りながら組み立てる」という言葉で表現されている。
さて、必要に迫られてから、ということだが、そもそも論文を読む必要とは何なのか。これを理解するために、まずは論文を読む目的を考えてみる。
論文は何のために読むのか
研究を進める上で、論文を読むのは必須だ。
論文を読む目的は、大きく分けて
- 情報収集
- 論理構成の学習
の二つになる。
情報収集
一般に、論文は次のような構成からなっている。
- 要旨 Abstract
- 導入 Introduction
- 実験手法 Method
- 結果 Result
- 議論 Discussion
- 結論 Conclusion
そして、導入から議論までの過程で適宜、本文に合わせて図(Figure)が掲載されている。図の多くは概念図(研究の概要を視覚化したもの)と実験結果(議論に用いるシミュレーションの結果も掲載されることがある)である。
基本的に、次のような動機で論文を読むことが多い。
- 最新の研究動向を知りたい・研究テーマを考えたい
- 実験に用いる手法や測定条件について知りたい
- 研究の背景を知りたい
論理構成の学習
論文を構成する上記のような要素について、それぞれをどのような論理展開でつなぐか、もっと言えば一つの研究成果という「物語」をどのように展開していくかは、論文を読むことで初めて学ぶことができる。
作家は、先人たちの本を読んで学び、実際に書く経験を積むことにて少しずつうまく書けるようになる。それと同じで、研究者も先人たちの論文を読むことで、論文の書き方を学んでいくのである。
また、論理構成を学ぶと、今度はそのフレームワークに沿って、「○○を示すには△△というデータも必要になる」「××というデータがあれば、□□という方向へ議論を展開できる」というように、実験で必要なデータを逆算して考えることも可能になる。
以上のような目的を踏まえると、論文を読む必要性は
- 研究テーマを理解する(自分が何を研究するのか)
- 実験をする(どんな測定をするべきか)
- 論文を書く(研究の背景は何か、論理構成はどうするか)
といった場面で現れる。その都度、必要な知識や考え方を学ぶために読むようにすればいい。
論文は全文読まなくていい
ここまでの話を踏まえた上で、一つ守ってほしいことがある。
それは、
「基本的に、論文を全文読むことはしない」
ということである。
論文を読んでその内容を理解するというのは、本来相当な時間や労力を要するものだ。論文輪読会で発表したことがある人はそれがわかると思う。
僕の分野の場合、1本の論文は3000~5000語くらい(4~6ページくらい)で、30~50本くらいの論文が引用文献となっていることが多い。
したがって、読んで理解して、引用されている文献をこまめにチェックし、それを自分の言葉で説明できるくらいに理解するためにはかなりの時間がかかる。初めて論文輪読会で発表したときには、その準備だけで2週間を費やしてしまったことを覚えている。
学位論文を書くためにも論文は相当数引用する必要がある。僕の場合、卒論では40本以上、修論では100本以上引用した。これを全部丁寧に読んで実験もして論文も書いているようでは、時間がいくらあっても足りない。
どのように読めばいいのか
論文を全文読まないなら、どのように読むべきなのか。
答えはシンプルで、「必要な情報がある場所だけ読む」だけだ。
読む場所を決めるには、その論文を何のために読むのかはっきりさせればよい。
論文を読むそれぞれの動機に対して、次のように読む場所を分解する。
- 最新の研究動向を知りたい・研究テーマを考えたい → Abstract, Conclusion, Figure
- 実験に用いる手法や測定条件について知りたい → Method
- 研究の背景を知りたい → Introduction
ResultとDiscussionは、「データから結論までを示す道のり」である。もし、データが掲載されているFigureを見てすぐに「そういうことか」とわかれば、いちいち読む必要もなくなる。
また、実験をする上で、先行研究ではどんな測定条件かを調べる上ではMethodだけ見ればいい。
論文の導入部を書くためには、自分の研究がどのような背景から行われたものなのか、時間的経緯に沿って説明できるようになる必要がある。その場合には、先行研究のIntroductionパートを見れば、それが良くまとまっていることが多い。
精読も必要
かといって、全ての論文を飛ばし読みしていいわけではない。論文を書くためには、論文を数多く読んで書き方を学んでいく必要があるからだ。
「自分は修士論文しか書かないから関係ない」と思う方もいるかもしれない。
実際、学位論文の形態は、一般的な科学誌、論文誌とは大きく異なる。前者は日本語でよいことが多く、研究の背景や手法も詳細に書き尽くす必要があるため、分量が多くなる(数十~数百ページ)。一方で、後者は英語で書くことが多く、要点に絞り、重要でないところは省いて数ページにまとめる必要がある。修士論文の書き方は、先輩のものを見て学んだ方がいい。
しかし、そのような人にとっても、英語論文を精読する必要がある。それはなぜか。
「学位論文審査で必要となるから」である。
研究について発表する場合、論文と同じようにストーリーをきちんと作る必要がある。発表時間は限られているから、自分の研究の中から重要なところを抽出してまとめなければならない。さらに、自分と異なる専門の教授にもわかるような説明が求められる。
これを学ぶ上で、精読は重要になってくる。
精読する論文を厳選する
ところが、精読には時間がかかる。競技で忙しい人は、手当たり次第に精読することなど到底できない。
したがって、精読する論文を厳選する必要がある。
具体的には、自分の研究に大きく関連している、被引用数の多い論文を中心に読むべきである。
被引用数とは、他の論文に引用された回数のことである。これが多いほど、その分野の多くの研究に示唆や手法を与えているということになる。したがって、自分の研究を理解し、説明するうえで必要な知識がきちんとまとまっていることが多い。
また、ストーリーを学ぶ上でそのような論文は有用になりうる。何故なら、被引用数の多い論文は、インパクトファクターの大きな権威ある雑誌に掲載されていることが多いからだ(論文のインパクトファクターは被引用数の平均値で決まる)。こうした雑誌では査読が厳しく、そのためにきちんとした議論がなされていることが多い。
(査読:論文で発表される成果がその雑誌に掲載するにふさわしいものであるかどうかを、学者たちが読んで審査すること)
何を読むべきかわからなかったら、助教や先輩に聞いてみるといい。
精読のタイミング
論文は、「必要に迫られたら読む」という話をした。それでは、精読が「必要に迫られるとき」とはいつだろうか。
基本的には、「何らかの発表をするとき」ということになる。
最も身近なのは論文輪読会で発表するときだ。このタイミングで、発表する論文と、その論文に大きな影響を与えている論文を数本、じっくり読んでみる。
あるいは、学会発表をする機会があれば、その構成を考えるときに精読を取り入れてみる。すると、自分の研究がどんな立ち位置にあって、どんなストーリーにすると同じ分野の人へ研究の意義を伝えられるかを理解しやすい。
なお、学位論文審査に精読が必要とは書いたが、審査の直前に精読をするのは時間的に相当厳しい。実験が終わり、学位論文を書きながら並行して精読を行うのがいい。これをやると、緒言を書くのに役立つ。
精読で気をつけるべきこと
ダラダラ読んでいては時間の浪費になる。ただ読むだけでは内容は頭に入ってこない。
能動的に読むために、手を動かして読むといい。段落ごとに要点をまとめてみたり、わからないところに疑問点を書いてみたり、ノートに内容をまとめながら書いてもいい(ただし、まとめノートをきれいに作る必要はない。既に一度精読して理解した論文であれば、必要な情報はすぐに本文から見つけ出せるようになるはずだ)。
読み方についてはいろいろ試して、自分に一番合うやり方を見つけてほしい。
参考書籍として、「『読む力』と『地頭力』がいっきに身につく 東大読書」(西岡壱誠著、東洋経済新報社)を挙げておく。本を能動的に読む方法が書かれているが、この方法は論文にもある程度有用である。
まとめ
- 論文は必要に迫られたら読む
- 必要な場所を抽出して読んでいく
- 精読する論文を厳選して読む
これが身につけば、何も理解しないままダラダラと論文を眺めて時間を浪費することもなくなるはずだ。